教会報・巻頭言ライブラリ

 五反城教会では、毎月初めに教会報「ヨハネのたより」を発行しています。内容は、教会委員会の議事録、信徒の投稿、お知らせなどです。この教会報の表紙に掲載されているのが、司祭の巻頭言で、ここではその20014月以降のバックナンバーを紹介しています。

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第221号 2012年4 桜の開花とご復活祭
第220号 2012年3
四旬節中の改心と愛の行いの実施
第219号 2012年10
年頭所感を読んで、これから::
第218号 2012年1
献堂五十周年を信徒と共に 
第217号 2011年11
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (最終回

第216号 2011年10 シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その11
第215号 2011年9
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その10
第214号 2011年8
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その9
第213号 2011年7
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その8
第212号 2011年6
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その7
第211号 2011年5
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その6
第210号 2011年4
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その5
第209号 2011年2 *
工事中ーしばらくお待ちください
第208号 2011年2
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その3)
第207号 2011年1
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その2)
第206号 2010年12
シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その1)
第205号 2010年11
終わりはまた始まりでもある ―年間主日の完成―
第204号 2010年10
十月はロザリオの月
第203号 2010年9
敬老の日を迎えるにあたって ―高齢者の失踪事件と年金授受―
第202号 2010年8
聖母被昇天祭と終戦記念日
第201号 2010年7
小教区は信徒の支えがあってこそ ―継続は小教区の力―
第200号 2010年6
五月の当教会総会が終わって ―承認と決意を新たに―
第199号 2010年5
聖母月に「聖パウロ年」を想う
第198号 2010年4
わが主のご復活の記念をお慶び申上げます。―受洗者の皆さんとご復活の喜びをともにー
第197号 2010年3
春の季節と四旬節―罪の償いの実践―
第196号 2010年2
四旬節を有意義に過ごすために
第195号 2010年1
二〇一〇年度の教区年頭書簡の概要―小教区の取組みの前に―
第194号 2009年12
待降節の迎え方 ―第一と第二の来臨の追憶―
第193号 2009年11
賽銭箱に投入するやもめの姿 ― 十一月の死者の月にあたり ー
第192号 2009年10
「あかしする信仰」と信仰体験談
第191号 2009年9
ビアンネー神父を理想の司牧者として
第190号 2009年7
体ごと天に上げられたマリア様へ―八月はマリア様の被()昇天(しょうてん)(さい)
第189号 2009年6
宣教の熱をわたしたちに!
第188号 2009年5
聖母月に「聖パウロ年」を想う
第187号 2009年4
わが主のご復活の記念をお慶び申上げます。―受洗者の皆さんとご復活の喜びをともにー
第186号 2009年3
イエスのように誘惑を試練に変えよう
第185号 2009年2
どうぞ、灰の水曜日に灰を
第184号 2009年1
今年の年間テーマの個の取り組み
第183号 2008年12
待降節に信仰のあり方を考える
第182号 2008年11
列福式188名は日本の教会史上 最大のイベント
第181号 2008年10
ロザリオの月
第180号 2008年9
同信の友の長寿をお祝いしよう!
第179号 2008年8
聖母マリアの被昇天祭
第178号 2008年7
 時事問題を自分の眼で観る
第177号 2008年6
小さないのちに感動
第176号 2008年5
今年の教区テーマ「神にきく信仰」(その4)〜どうする、五反城小教区の取り組み〜
第175号 2008年4
今年の教区テーマ「神にきく信仰」(その3)〜どうする、五反城小教区の取り組み〜
第174号 2008年3
 今年の教区テーマ「神にきく信仰」(その2)〜どうする、五反城小教区の取り組み〜
第173号 2008年2
 今年の教区テーマ「神にきく信仰」(その1)〜どうする、五反城小教区の取り組み〜
第172号 2008年1
 新年早々想うこと




20124 ★ 桜の開花とご復活祭主任司祭 七種照夫

1 皆さん、主のご復活祭を心からお慶び申し上げます。今年の冬は本当に長くて厳しかった。3月下旬になっても気温は上がらず、寒さは長引いた。でも雨が降るたびに、雨は小雨に変わり教会の前の桜並木の小枝にも潤いをもたらし、春の温もりを感じさせてくれた。ただ今桜は満開、いや散り始めたところもある。春の音づれを充分に感じさせてくれる。もう4月も半ばだ。

2 閑話休題。それでは主のご復活の話に移ろう。マグダラのマリアが墓地に着いて見たものとは、何だったのか。入口の墓石が取り除けられてあるのに気づき、墓の様子を覗いてみると、イエスの遺体は見当たらなかった。そこで彼女は気が動転して、とにかくペトロとヨハネにこのことを知らせねばと全力でもと来た道を引き返すのである。腰は抜けそうになり、頭は真っ白パニック状態になった。マリアは園の番人が盗んだと思い込んでしまい、イエスが生前三日目に死者の中から復活すると話されていたのに、眼中になかったのである。

3 次にペトロが墓の中に入って見たものは、何だったのか。イエスの頭に巻いていた布は別の所にくるめてあり、 遺体を巻いていた布は、別の所に置いてあった。ペトロが不審に思ったのは、遺体を運び出す場合に、どうしてわざわざ丸裸にして持ち去ったのか考えられず、それは準縄ではないと思った。しかし、ペトロも生前イエスが苦しみを受けて三日目に復活すると話されたことを完全に忘れていたのである。

4 さらに、ヨハネが墓の中で見たものとは何だったのか。ペトロの後に引き続き墓に入り、その様子を見て、遺体を巻いていた亜麻布は別の所に置いてあり、その布はきちんと折り畳んであったことに気づいたのである。イエスと3年間共同生活をしていれば、イエスの個性的な癖も熟知していたのはヨハネである。人は布をたたむ時、誰でも畳み方に癖があるものだ。それでヨハネがその折り畳み方に気づいたのである。それを見て「信じた」のである。

5 わたしたちもヨハネのように、復活のイエスを信じることが出来るとすれば、日常生活の中でイエスと一緒にいなければならない。ヨハネがイエスの復活を信じたその前提とは、イエスの癖を知っていたからである。わたしたちにとっても、イエスの仕草を見て取った者だけが、主の復活の喜びを真に味わうことが出来るのだ。


20123 ★四旬節中の改心と愛の行いの実施 主任司祭 七種照夫

1 四旬節中、自己改心の道を一歩でも前進させたいと信徒ならば必ずそう思う。自分は自分だから、自分の改心のために他者がとって変わることはできない。 脳外科の先生がぼくに助言をくださった。「あなたがお腹の中性脂肪をとりたいと本気で思うならば、覚悟が必要。主食のパンや麺類、米類を一切断念するしかない。その代わり青魚や野菜、大豆などでお腹を満たしてください。さらに歩いて運動量を増やして下さい」と。このようなアドバイスは、今まで馬耳東風で聞き流して来ていたが老いぼれのこの歳になり、さらに軽い脳梗塞になって始めて、医者の話に骨身に沁みて耳を傾けることが出来るようになった。

2 ここで、身体的内容のことは精神的内奥の神秘性にも応用できる。荒れ野での40日間、イエスが飢え渇き、炎天下の暑さ、夜の底冷えに悩まされ、不眠不休の戦いに挑んでおられた。  マルコは、その間天使たちがイエスに仕えていたと記している。方や、マタイ、ルカはイエスがサタンに打ち勝った後天使たちが仕え、ガリラヤにお帰りになったと。それはそれなりに意義深いものがある。方やマル コの場合は、終末論的な受け答えに共感を覚える。わたしたちは戦闘の教会において信仰のよき戦いを闘いながら、この世に打ち勝ちたいと切に願っている。神の愛の懐に抱き抱えてもらいたいと、一日千秋の思いで待ち望んでいる。

3 3月25日(日)は信徒の静修の日である。川上明神父の講話を聴きながら、自分自身の振り返りをしていただきたい。福音宣教の原点は自己回心にあるのである。それ故、自己の内面を主客転倒させることによって、福音的価値を身につけなければならない。世間の常識は教会の非常識であり、世間の非常識は教会の常識とも言われるが、ある意味では当を得ている。  四旬節のカリタス献金は自己犠牲の上に成り立っているので、罪の償いと言うのは、仏教で言えばお布施の行為とよく似ている。このことを自分自身への福音化と言うのである。

4 5月6日(日)はわが教会の創立五〇周年記念の日である。当日は記念ミサが行われ、式典が盛大に行われることになっている。今はその準備のためにおおわらわである。3月4日には教会委員会と50周年記念実行委員会の合同会議をもち、最終的な打ち合わせを行った。あとは教会会長から報告やお願いがあると思う。


20122 ★ 年頭所感を読んで、これから::主任司祭 七種照夫

野村司教が福音宣教の原点に帰ろうと呼び掛けておられる。またそれをプッシュするかのように、教区事務所を通じて日本司教団からの重要な書類が送り届けられた。教区内では、小教区レベルにおろして実行すべき課題が目白押しに列挙された。 まず、日本司教団の書類は以下の通り。@日本二六聖人殉教者の再宣教150周年記念にあたって教区を上げて取り組むこと。A3月11日、東日本大震災1周年迎えるにあたり物故者に対する慰霊祭(ごミサ)及び被災地復興元年の年にあたり相応しい取り組みをすること。Bローマ教皇庁からは、二〇一二年一〇月一一日から二〇一三年一一月二四日まで「信仰年」を宣言し、20項目にわたる提案がなされていた。そんなわけで、司教団からの要請も視野に入れなければならない。次に、名古屋教区内での取り組みであるが、野村司教は再宣教を開始するにあたって宣教の目的と使命について簡単に述べておられた。福音宣教することは、司祭、修道者の専売特許ではなく、全キリスト者(Totus Christus)が関わらなければならない。かつて故教皇パウロ六世も『福音宣教』15項に教会と→ 福音宣教の相互関係について、「教会は福音宣教者ですが、それにはまず教会自身が福音宣教されなければなりません。::1974年のシノドスで確認されたことですが、教会が全世界を真に福音化するためには、絶えざる回心と刷新によって、教会自身が福音化されなければなりません」と。  私たちにとって、福音宣教の目的とはまず自己にとってメンタリティ・チェンジ(内的変化)が必要である。自己を内面から変容させ、新生させることが要求される。福音宣教の目的は自己の内的刷新にあると言える。イエスが「神の国は近づいた。回心して福音を信じよ」と言われた、み言葉がまさに教会の四旬節や待降節を通して、私たちに呼び掛けておられるのを見れば分かる。回心を呼び掛けることによって教会は福音宣教をしていることになるのだ。  内的変化によって今までの判断基準や価値観が変わり、関心事や主義主張を変え、生活様式を福音の力によって、転倒させることにある。    また福音宣教のためには私たちはそれぞれの使命を持ち、地域と社会、派遣労働とニート、福祉と医療、生活と文化等の奉仕に対して、個性や多様性を持って発揮しなければならない。


20121 ★ 献堂五十周年を信徒と共に 主任司祭 七種照夫

至福の年となるわたしたちにとって、今年献堂50周年を迎えるからである。わたしが初めて当教会に赴任したのは1985年、その2年後献堂25周年をお祝いした。今回は2度目の就任で併せて13年目になる。この間好き嫌いは別にしてわたしは信徒と共に当教会の歴史を創ってきた。 1985年は公会議後30周年の年でしたが、国内外でも公会議の成果は十全に浸透せず、日本の教会は旧態依然とした様相であった。当教会でもご高齢のお二人の神父様に許可を頂き、典礼憲章、教会憲章など信徒と共に自主学習を試みた。公会議後の教会内部刷新に信徒たちと取組んだ。そんな中で献堂25周年記念ミサを行い、祝賀パーティーを開き、記念誌を発行したが、納得のいく編集は出来なかった。当教会に25年間の資料を見つけられなかった。しかし信徒の意識改革は着実に前進していた。 ところで、主任の任期は最長10年と云われていたが、その時の管区顧問は5年目のわたしに白羽の矢が立ち、小神学生指導に強いて任命したので、わたしは受理するしかなかった。名古屋のアーノルド神学院で 1年、長崎のルドヴィコ神学院で6年間指導したが、以前の教会司牧では味わえない経験をした。満期で養成機関を終え、東北の秋田教会に任命され、60過ぎてから雪国はないだろうと思っていたので、驚いた。案の定、東北の教会司牧は3年目でお手上げ、東北の生活習慣は馴染めないので名古屋に帰りたいと聖霊のシスターたちに愚痴ったら、あなたはルンルン気分でしょうが、わたしたちはどうなるのよと言葉を返されて、言葉に詰まってしまった。それでやせ我慢することにした。4年目あたりから秋田の信徒と馴染むようになり、人間関係も密になり、秋田の人は人情に溢れていると最高のレッテルを貼ったのである。ぼくより1つ上のKさんがぼくの足になって上げると申し出て、4輪駆動の大きい車で、青森、岩手、宮城にまたがって、毎週月曜日ともなれば、車中で握り飯を頬張りながら、彼といつも信仰談義をした。3県にまたがる温泉郷の温泉を満喫したのである。  献堂50周年には2面性ある。一方陽のあたる面と、他方の陰建物も50年経てば老朽化する。人も同じだ。5年前から目標額を決定して募金活動をしているが、努力目標をあと5年延期することにした。まずお祝いを優先する


201111 ★ ガリラヤの湖畔に立つ(最終回) ―十三日間の思い出に― (その11主任司祭 七種照夫

地中海を臨む

1 十一月二十五日(木)、いよいよガリラヤ湖畔からお別れの時が来た。バスは77号線をカルメル山に向かって走り出した。私たちはカナ、ナザレ、メギドを尻目に地中海に向かって横断するため、途中で122号線に移行して、672号線と交差し、カルメル山に向かって上り始めた。

2 話題休閑。現在の聖地エルサレムとテルアビブについて、この度ガイドさんの解説から幾つか思い出して記述しておきたい。聖地エルサレムは今も巡礼者で絶えることがない。それはエルサレムが祈りの町と言われ、テルアビブは遊びの町、ハイファは働く人の町であると説明していただいた。 また、キブツ(イスラエルの入植者生活共同体)についても話を聞いた。西暦70年から1948年まで離散していた(ディアスポラの民)残りの60万人のユダヤ人たちが祖国エルサレムを目指して帰国した。その間パレスチナ人たちが住み着いたのだ。そこへ割り込んできて、エルサレム周辺に住み着くようになったのは、ユダヤ人たちだ。アメリカが一方的に国連でユダヤ人のエルサレム入国をバック・アップしたからである。この領土問題は紛争へと発展し、今でもイスラエルとパレスチナは和平に至ってはおらず、一触即発の状態にある。彼らは生活するために最初キブツという生活 共同体を作り、荒廃した土地を整地し、農地を改良し穀物を植え、果物を栽培して共同生活をベースに家庭生活の自立を最優先させた。ヨルダン川を境に西岸地区に幾つものキブツが立ち並び、学校や病院も自分たちのキブツ内に設け、現在は緑に囲まれた住宅があるのを見た。しかし現在、キブツにも生活環境に変化が現れ、若者たちは集団農場から出て都会に住み着くようになり、昔のキブツ体制は取れなくなったというのである。

3 やがて、バスはカルメル山の頂上に着いた。その広場には観光客のために売店があり、そこで数本のロザリオを買った。高台に昇り周辺を見渡した。北方には平野が広がり川が流れ、西方に目をやれば、霞みの中に地中海が見えた。ここカルメル山はエリア預言者の雨乞いの祈りで有名である。

4 バスは昼近く廃墟の港カイザリアに到着した。沿岸線はどこまでも砂浜になっていた。この港はヘロデ王がローマ皇帝に取り入るために建造した曰く付きの港である。ローマ軍団が最初に上陸した港で、大きな円形劇場や競技場があった。パウロもこのカイザリア港から船出した。導水橋が造られ水を引いた事蹟があった。地中海を右側に見ながら、2号線を南下して、やがてヤッフォ港町に着いた。この港からペトロがローマに船出した港である。完


201110 ★ ガリラヤの湖畔に立つ(2) ―十三日間の思い出に― (その11主任司祭 七種照夫

1 9月号の巻頭言で11月24日巡礼日程をすべて網羅して記述するのは難しかったので、10月号に続いて掲載することにした。

2 タブガからバスに乗りベッサイダを経てクルスィまで足をのばした。左側にはゴラン高原の裾野を見ながら右側にはガリラヤ湖を見ていた。ここクルスィでもガイドの説明があった。イエスが異邦のガダラ地方に舟のとも綱を岸につなぐと、悪霊に捕り付かれた男が墓場から出てきて、悪霊を追い出すのであればあの豚の中に入れてくれと頼むと、2千頭の豚が崖を下って湖になだれ込んで死んでしまったとの話。しかしこの周辺は崖などなくなだらかな高原の斜面になっていたので、彼の説明の通り崖から落ちて溺れ死ぬとは考えられなかった。クルスィの港町に着くと、わが一行は貸し切り遊覧船(復元されたイエスの時代の船)に乗って40分程走って船は湖の真ん中で止まった。そこからかすかに至福の山が見えるところまで来ていた。その船の中でもいろんな説明を聞きながら感服していると、パラダイスの随行員がぼくに〈お祈りを〉勧められて、どうしようかと迷っていた瞬間、「ガリラヤの風薫る丘で」を皆で歌おうと提案したら、それを受けて大合唱となった。感動的で最高潮に達した。

3 クルスィの港に帰り、そこのレストランで昼食に「ペトロ・フィッシュ」が出ると聞いていたので楽しみにしていた。出されたのはオリーブ油でフライにされた15センチほどの魚で、食べて見て美味しいとは思わなかった。日本の鯉のような感じがした。出されたものは皆同じサイズのようで、ガイドに聞いてみたら、観光客のために養殖しているとか。この港にも夜釣り舟がいるのではと好奇心から周りを見たが、それらしい舟は見当たらなかった。

4 その後、ゴラン高原へと向かって行った。北方の奥ゴラン高原と言えば、国際的にも不安定で危険な場所で、国際平和部隊が駐屯していると聞いただけで緊張したが、その周辺の説明を聞いている間に、見張り台に着いた。ガイドが〈あそこが〉と指さす方を見ると、4キロも離れていないところに建物が建っていた。そこが国際平和部隊の駐屯地だという。平和でのどかな場所だと思った。日本からも40余名の隊員がここに派遣されていると聞いた。

5 そこから西北に向かって行くと、やがてヘルモン山が見えてきた。途中でドローズ族に出会った。南下してフィリッポ・カイザリア遺跡に近いバーアス源流を見学して、夕暮れ時マグダラの港町を車内で窓越しに見ながら、マグダラのマリアの晩年の話を聞いて、ようやくティベリア湖のホテルに着いた。



20119 ★ シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その10主任司祭 七種照夫

ガリラヤの湖畔に立つ

1 聖研の時にぼくは、ガリラヤ湖を説明する際、自分流の地図を白板にスルスルと書いて見せる。ガリラヤ湖は子供の左足にそっくりだ。親指がベッサイダで人差指がカペナウム、ヘルモン山から雪解け水が親指と人差指の付け根のところへ流れ込んでくる。ここは淡水湖だから、川口とその周辺には魚の種類も豊富。薬指がマグダラの港町。昔から周辺の人々はカペナウムからマグダラの港町までをゲネサレトの野原と呼んでいた。  それを確かめるためにも、今回初めてガリラヤ湖畔に立った。11月24日朝ティベリアスのホテルを出発して、「ペトロの主権の教会」を訪問した。カペナウムの港町からどのくらい離れているか分からないが、波打ち際に記念教会が建っていた。ガイドによれば、かつてペトロたちが漁に出て、陸から声をかけられたら応えられるところで投網を降ろしていた場所だという。聖堂の祭壇の側に「イエスの食卓」と記された岩場が囲われて、そのまま残されていた。教会から波打ち際まで歩いて80b位まで砂利の砂浜で、その先の湖までは遠浅になっていた。教会の庭は円形の広場になっていて、周りには大きな樹が影を落としていた。そこで入祭の歌、奉納の歌、閉祭の歌をもって感謝のミサを捧げた。

2 そこからバスに乗って有名な「至福の山」の教会を訪問した。そこは小高い丘隆の中腹にあり、ガリラヤ湖を見下ろせる素晴らしいロケイション(景色)だった。その教会は近代的で聖堂内はイエスのことば、つまり真福八端のことば(ラテン語)が八面に描かれていた。ラテン語のことばをゆっくり読み味わった。外に出ると、ガイドからイエスの山上の説教の場面についての説明を聞いて驚いた。イエスが山の上から群衆に向かって山彦を利用して話されたとばかり思っていたが、現に山上の説教の山は山ではなく丘陵になっていることから、イエスご自身が下にいて、湖から吹き上げてくる風を利用して上にいる群衆に話されたという説明にぼくは納得した。またこの一帯は「タブガ」と呼ばれているが、この周辺地域にはペトロの主権の教会があり、至福の山の教会があり、下に降りて行けばカペナウムのシナゴグ(祈りの集会所)があった。イエスが安息日にお話しされた会堂である。今は廃墟になっていたが往事を偲ぶことが出来た。ペトロの家はシナゴグから10分程の所にあった。基礎石を見ると、大きな家で船主であったことが推測される。また近くのパンと魚の教会にも足を伸ばした。観光者のためか、「イエスの町」とも書かれている看板を見てデジカメに納めた。この先は紙面の都合上次回に回す。



20118 ★ シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その9主任司祭 七種照夫

ガリラヤ湖畔を夢に見て

1 11月23日(火)の朝7時、ガリラヤ湖を目指して出発した。幹線道路1号線から90号線に変更し、北上して右側にヨルダン川と並行してバスは走る。左側は山並になっていて、なだらかな地形で人家があり、野菜、ぶどう、果樹園が見え、9号線と71号線との交差点、つまりベト・シェンを通過する際、ガイドさんが《ここはかつて、朋友ヨナタンがダビデに父サウル王の迫害から逃れるためベト・シェンの洞窟に隠れるよう忠告して場所だ》と説明した。バスは71号線と60号線とが交差する地点で、進路を65号線に変え、アフラを通過し、モレの杉の丘ナイムの町、記念教会に8時半ごろ到着した。教会内外の景色を見て回った。一人息子を亡くした未亡人の話は皆さんもご存じだ。

2 先を急ぐので、バスはメギドへ向かった。両側にはエズレエルの緑の平野が見えた。午前10時頃メギドに着いた。このメギドは要塞として古戦場としても有名な所である。世界遺産にも指定され、ヨハネ黙示録には、「ハルマゲドン」(神とサタンの最終戦争の場)とも呼ばれている。アレキサンダー大王の時代、要塞として造られた古戦場である。その丘からサマリア方面に目をやればエズレエルの平野が霞んで見えた。メギドはかつての軍団の駐屯地であり、 遊技場や馬舎、見張り場や水場もあった。水は地下道から汲み上げられる構造で、地下水道まで降りると横穴式になり、そこから30分も歩けば、別の出入り口になっており、観光バスが待っていた。

3 そこから、バスで30分も走るとタボル山の麓に着いた。小高い山なので、6人乗りのタクシーに乗り換えて何回かカーブして山頂に着いた。手前には売店があり、奥には「ご変容の教会」が建っていた。中に入るとイエスとモーセとエリアが語り合っている壁画が描かれていた。隣には展望台になっていて、そこから周辺を眺めることが出来た。ご昇天なされた所もここではないかと一瞬緊張して祈った。

4 いよいよ、ナザレの町へ。受胎告知の教会を目指してナザレの町で下車した。歩き始めた途端に拡声器から流れてくる大きな声は、《アッラー、マクハー》ではないか。耳を疑った。ここはナザレだろ!なぜイスラムの神なのか。肝を潰された。  でも、受胎告知の教会は素晴らしかった。ラテン語で、「主のみ使いがマリアに告げた」「み言葉は人となられた」と正面壁面に刻まれていた。聖堂内の壁面にもいろんな場面の絵が描かれていた。隣はヨセフの教会で、ごミサを捧げた。3時過ぎカナの婚礼の教会に立ち寄り、夕暮れにバスの中でマグダラの話を聞いた。で、ティべリア湖畔のホテルに着いた。



20117 ★ シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その8主任司祭 七種照夫

エルサレム(旧)市街地二日目の巡礼

1 前日の「最後の晩餐」の部屋に近いシオンの丘に来て、「マリアの永眠教会」を訪れた。そこには等身大のマリア様が眠っておられた。回りに柵が設けられ、回りながらお祈りできるようになっていた。 あれ!マリア様が臨終を迎えられた時どうだったのかとふと気になった。死後そのままエリアのように天に昇られたのではなかったか。永眠されたことを記念して教会を建立されたのであろうが、何とも割り切れない気持ちになった。

2 そこから西側の壁にそって歩いてダマスコ門を通って鶏鳴教会を訪ねた。そこはカイヤファの館といわれた所であった。イエスが柱に両手を縛られ、鞭打たれて地下室に閉じ込められたという場所まで降りて行って見た。庭に出て見れば、そこは傾斜面になっていて、その庭を見てもそんなに広い庭だと思わなかったが、下女たちが火を焚いて体を温めていた所に知らない振りしてペトロとヨハネも加わって、中庭の様子を窺っていたという場面を思い浮かべて見た。

3 次にベツレヘムヘ巡礼するためにダマスコ門からバスに乗り、一時間ほどでベツレヘムに着いた。かつてここはイエスから千年前ダビデ王が幼少の頃から住み馴れた場所であったが、今は市街化されていて、昔の面影を偲ぶことはできない。 今は中世期の建物のようで、外敵から街を守るために高い外壁を張り巡らした痕跡を見ることができる。旧エルサレム市街地がそうであるように、ここも高い城壁に囲まれていて、余裕のある雰囲気にはなれなかった。ここも巡礼者でごった返していたので、イエスがお生まれになった場所に近づくこともままならない。生誕教会で午前10時のミサを予約していたので、香部屋係の修道士から小聖堂に案内され、そこで典礼聖歌をもって力あるミサを捧げた。その後短い時間でショッピングを楽しんだ。

4 ここから引き返して今度は新エルサレム市街地にある近代的なイスラエル博物館を見学した。その中庭には旧市街地の全体が立体的模型図となっていたが、その正確さは見事でした。とにかく旧市街地を一望のもとに眺める模型図は素晴らしかった。

5 イエスが受洗された場所はエリコの近くのベタニアだと云われているが、今回はそこには行かず、サリムの近くのアイノンと呼ばれている場所に立ち寄ってみた。そこには大勢の人が押し駈けていた。プロテスタントの巡礼団が訪れる場所で、ヨルダン川で受洗したいという方々だそうだ。かれらの洗礼式を見た。そこはまた水も豊かだった。

6 当日の最後の訪問地エン・カレム(エリザベト訪問教会と洗者ヨハネの教会)を巡礼し終えた。



20116 ★ シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その7主任司祭 七種照夫

1  エルサレム市街地初日の巡礼 十一月二十一日(日)朝9時ホテルを出発して、オリーブ山の頂から眼下に見えるゲッセマネの園と対岸の朝日に照らされた岩のドーム(エルサレム旧神殿)を一望することができた。神殿は絵のように美しい容姿でした。  高台から降っていくと、イエスの偲ばせるよう時代物のオリーブの園とその古い樹を見つけた。樹齢四〇〇年もする樹でした。その園は良く手入れが行き届いていた。その片隅にイエスが岩に寄りかかりながらお祈りされている小さなレリーフを見つけた。その隣接する場所が、「主の嘆きの教会」、「万国民の教会」、「主の涙の教会」とも呼ばれている有名な教会でした。そこでしばらくお祈り致しました。  次の目的地は『嘆きの壁』ですが、バスでマグダラのマリア教会を目で追いながら、ケドロンの谷を通過し、神殿の南側の高い壁を見て、旧ダビデの町の門から有名な「嘆きの壁」を訪れました。一時間の自由行動が許されたので、「嘆きの壁」に一人で近づいて行きました。観光客は祈っているラビたちにずうずうしく近づき、好き勝手にシャッターを切っていたので、私も真似して彼らに近づきアップで数枚撮りました。ラビたちは老いも若きもヘブライ語の祈祷文で頭を縦に振りながら熱心に祈っていた。ガイドさんは彼らを黒 装束と呼んでいました。  いよいよ神殿の丘へと進んでいき、神殿が建立されていた跡地に立った。ソロモン王がBC九〇〇年初頭に建立し、BC五三八年後に一六年をかけて大祭司エズラと州知事ネヘミアが修復した神殿の歴史的史跡があった。岩のドームの中庭に立つと中世期の十字軍時代のことが思い出された。正午近くになったので、イスラム教警護隊員たちからこの場所から早く退却するように号令がかかり、急いでその場を後にした。そこから繁華街のゲートを歩きながら、「ヴィア・ドロロザ」(イエスが十字架を担いで歩いた道)の数か所を巡りながら、ダマスコの門に至り、そこを出て昼食を取った。  その後聖墳墓教会に巡礼をした。建物に入る時に気づいた。世界中から聖地に巡礼に来ているので、建物は巡礼者で溢れていた。墳墓教会もそうだ。小さな入口だから、時間がかかり先に進まないのは、その入口で男も女も押し合い圧し合いしながらそこを通過するが、この時だけはハラスメントとは言わないのである。うんざりした気分になった。当日は主日であったので、墳墓教会でミサを予約していた。古い小聖堂を借りて、私たちの日本語のミサと歌で周りの人々は耳を澄ませていた。もう一つ、最後の晩餐の教会を訪問したので、頭はパニックになった。



20115 ★ シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その6主任司祭 七種照夫

1  古代エリコの遺跡を観る イスラエル入国後の計画は二つ、エリコとクムラン遺跡を巡ることにあった。死海の上流のヨルダン川を渡って、北方ヨルダン西方のユダの高地に有名なエリコの町があった。まず古代エリコの城塞跡を訪ねた。新約時代のエリコの町はヨルダン川の緑地帯に移動して栄えた。エリコの町は古くから「なつめやしの茂る町」と呼ばれていて、今でもその他のものと沢山なつめやしの実が店先に並んでいた。 イエスの時代になると、この町にザアカイの家もあった。イエスがエリコの町を通られると聞いたザアカイは背が低かったので、いちじくの樹によじ登ってイエスを見ていたとある(ルカ10・30)。この度の巡礼の時、偶然にもエリコの町で大きないちじくの樹を発見し、嬉しさのあまりデジカメに収めました。日本では考えられないほどの大きな太い樹でした。その枝も折れそうには見えなかった。 古代エリコの城壁は跡形もなく破壊されたが、遺跡の発掘調査の甲斐もあって、昔の面影を偲ぶことが出来ました。その遺跡の場所から西方に目をやれば高い山波が見えた。イエスが40日間試みられた山だと案内者から説明があった。ここからは遠くに霞んで見えた成果か、エルサレム寄りの高い山という感じで、ごつごつした厳しい山には見えなかったのである。試みの山はガリラヤの湖の少し離れた高い山 高い山と想像していたので、びっくりしました。

2  クムラン遺跡の展望台に立つ  死海を起点にして見れば、北のエリコを訪ね、次に南のクムランを訪ねるのには4キロほどの道を往復しているのに気付いたのである。しばらくして南のクムラン遺跡に着いた。当時エッセネ派で篤信家のユダヤ人たちがメシア待望のためエルサレムの都を離れ、共同生活を営みと粗食に甘んじ、義の人となるため苦行を始めたのが、このクムランと云われている。確かに死海のほとりからも遠く離れ、そそり立つ断崖絶壁を利用して、世俗と絶縁してまで、義の生活をするためにこの場所を選んで住処としたと伝えられている。ここは死海寄りの高台にあり、ワジと呼ばれる水無川が見える。何千年もの間に浸食されて向うとこっちの隔たりが出来た形跡をそこに見ることができる。今は断崖絶壁になっていて、観光地の名所となっている。 死海写本の話は有名である。かつて羊飼いの牧童がこっちにやって来て、羊たちに草を食べさせていたが、手持無沙汰で小石を拾って高い崖に向かって投げていたが、ある時その一つが崖に当たって変な音がしたので、よじ登って行って見るとそこは洞穴になっていて素焼きの大きな壺が数個あって、ふたを取って見るとその中に羊皮紙の巻物を見つけた。それが死海写本発見の物語である。かつて洗礼者ヨハネもここに足を運び、エッセネ派の影響を多分に受けたと云われている。



20114 ★ シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その5主任司祭 七種照夫

1  待望のネボ山頂に立つ  ネボ山に午後3時ころ到着し記念ミサを捧げた。1時間の自由時間をいただき、見晴し台に行きそこから周辺を見渡した。今回聖地巡礼の念願が叶い、ネボ山に立つことが出来たのは、最高に幸せであった。 ネボ山の門前にはモーセの記念碑が立っていた。恐らくモーセもネボ山頂からモアブの平原を眺めたであろう。ぼくが眼下に見たのは、富士山の裾野のようでなく幾つもの丘(テル)になっていた。一望のもとに60万人の民を見るのは不可能であった。ただ遥か彼方に目をやれば、霞んで見える死海ヨルダン西岸の一部だけである。もちろんネボ山からエリコもヨルダン川も見えない。その時モーセは何を見て、思ったか想像に難くない。ネボ山もぼくの想像を遥かに超えていた。ネボ山はなだらかな山波になっていたが、奈良の春日野山に似ていた。そそり立つ険しいシナイ山のようでなく、秋田の人たちはご存知だけど、男鹿半島の八郎潟を見下ろす、あの寒風山に似ていた。 その後、売店に立ち寄り、記念に絵葉書など買い求めた。そこに故ヨハネパウロ二世のネボ山記念の絵葉書も見つけた。丘の上には、現在モーセメモリアール教会の新築工事が続行中でした。 われわれのバスは死海の西岸部に向かって降りて行く。 この辺りを車窓から見ると山波が続き、住み家はまばらだ。恐らくヨシュアが先頭に立ち、民を率いてヨルダン川に近づいた時と今も、そんなに変わらない風景だったに違いない。やがてバスは午後6時ごろヨルダン領西岸の死海スパ・ホテルに着いた。待望の死海(塩の海)である。

2   死海保養ホテルの朝の散策 出発前の1時間、保養所内を散歩しながら、見て回った。保養所内には幾つかのプールやプールサイドがあり、一日中ゆっくり休養する人たちで溢れていた。波打ち際まで行くには、歩いて20分位で行けた。行って見るとすでに、数人が死海の水に浸かって沐浴を楽しんでいた。これから泳ぐ人たちは水際で黒色の泥を全身に塗り、海水につかり泥を落とすような感じで沐浴するといった出で立ちでした。 気になったのは、水際の黒色の泥だが、見た感じでは何か植物性のものを土に浸けこんでいるみたいに思えた。水際はとても汚い感じがした。朝日を浴びて対岸のイスラエル領のシルエットはとても綺麗に見えたので、デジカメに納めた。

3 ヨルダン領西岸からイスラエル領への入国 朝10時30分に保養所を出発して、正午までにイスラエル領に入国するため国境検問所を通過することになっていたが、途中でバス運転手が道を間違えるというハプニングが起きたが、ぎりぎり間にあった。



20112 ★ シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その3) 主任司祭 七種照夫

1   シナイ夜間登山のチャレンジ 4日目のカタリナ・プラザホテルでは、真夜中2時に起床し個室を出て、バス停に向かい乗車して15分ぐらいでシナイ山の麓聖カタリナ修道院の広場に到着した。先着の巡礼団のグループは暗闇の中で登山し始めていた。 われわれは健脚組とラクダ組に分かれ、ぼくはラクダを選んだ。人を寄せ付けないような黒色の玄武岩のシナイ山に挑むのは、最初から無理だと諦めていたが、随行員の村上さんからも強引に誘われ、じっとホテルにいるよりはラクダで登ることに決めたのである。しかし、ラクダに乗った瞬間“こりゃ大変だ”と感じた。僕の足が短いため鞍の上で重心をとれないのだ。何回も暗闇の中に振り落とされそうで、“助けてくれ”と叫んでも手綱を引いている彼は知らんぷり。暗闇の中でラクダ同士先を争うかのように、急勾配の岩道を登っていくではないか。右手は前の鞍の取っ手を掴み、左手は後の鞍の取っ手を握りしめている格好を想像してみてください。生きた心地はしなかった。3時間をかけ、やっとシナイ山の8合目に辿りついた。これ以上登る気力もないし、足や腰やお尻が痛い。早朝の冷却した空気に触れ、咳込むし鼻水は出るし、泣き面に蜂とはこのことだ。ぼくはラクダに乗る前は、夜の霊気に触れモーセを想いながら、シナイの山で主の臨在感を味わってみたいと→ 思っていたが、それは一瞬にして吹っ飛んでしまったのである。寒さに凍え、周りには話す相手もいなかった。 5時頃になると東の山並に美しいシルエットが見え白み始めた。やがて茶褐色に映え朝日が輝き始めた。しばし見惚れ、お祈りをした。朝日が山並を明るく照らし始めたので下山を始めた。2時間後にはグループの仲間と顔を合わせ、やっと辛苦と歓喜を分かち合った。

2 聖カタリナ修道院内の見学 朝食休憩をとり、修道院の中庭に入り、旧聖堂に進むとそこには、貴重な歴史のある聖器具聖が典礼用品の遺物は宝の山のように見えた。歴史を物語る品々が一杯あった。次にモーセがかつて住んでいたところに修道院が出来たと思えば納得がいく。観光客のために作った垣根に「柴」が生えていた。モーセが飲んだという井戸は今空井戸になっていた。

3 モーセの道、アカバ湾に向かう いよいよシナイ山とはお別れして、バスは両側の岩山を縫うかのように先へと進む。岩山も次第に低くなり、花崗岩に変わっていった。ようやくエジプト領のアカバ湾が見えてきた。エジプト滞在は4日間でしたが、バスと搭乗員たちとの別れの時が近づいた。感謝の言葉を交わし、重い手荷物を持って、ヨルダン西岸地区税関の厳しいチェックを受けた。



20111 ★ シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その2) 主任司祭 七種照夫

1 葦の海徒行ならぬスエズ運河地下道を行く 3日目の朝、カイロを北東に針路を取ると、1本の舗装された道路が延々と続く。道の両サイドは荒れ野を整地し市街化調整区域として予定しているのか、それも並列して延々と続いている。たまにジャンクションがあり、そこから車が割り込んでくる。トイレ休憩もあり、足腰を伸ばしながら、小さな店に立ち寄り、みんなで品定めをする。 やがて、モーセの時代とは違って、バスでスエズ運河(紅海)をトンネルで通過するとアナウンスがあった。237キロの地下道を一気に渡りきると、シナイ半島の海岸と先ほどまで走ってきたカイロ側の海岸を見ていて錯覚を覚えたのである。モーセはゴシェン地方から葦の海を渡ったが、現在はいとも簡単にシナイ半島の海岸に立つことが出来る。シナイ半島の海岸から見ると、運河には大型タンカーが行き交うのが見えた。 さて、モーセの時代に話を戻そう。老いたヤコブと息子たち家族70人がヨセフの計らいで、エジプトのゴシェン地方に移り住み、430年間の長期にわたり逗留し、その間イスラエルの民は60万にもふくれ上がっていたと、出エジプト記15章には記されている。

2 「マラの苦い水」遺跡を訪ねる シェルの荒れ野にあった「マラの苦い水」の場所にも興味 を持っていたので、期待してマラの遺跡を訪ねたのである。バスから降りて少し歩いていくと、とんでもない光景に出合った。「マラの苦い水」は現在「空井戸」になっていた。円形で縦横5メートルのものが二つ作られているだけで、遺跡として整地された場所とは言えず、まるで放置された場所との印象を持った。そこでミサを捧げるように予定されていたが、それを取り止めにしたのである。そこには貧相に見えるヤシの木が10本位立っていた。最初は10人位の田舎娘が遊んでいるように見えたが、急によそ行きの着物に着替えて、安っぽい品物を売りに来るではないか、全く恐れ入ったのである。

3 バスはシナイ半島の海岸線を走る そこからバスはシナイ山に向かってひたすら走る。現在、「モーセの道」と云われている道は舗装されていて、両サイドの山波は岩肌を変えて見せ始めた。はじめは石灰岩で目に優しく、次に茶色の花崗岩へ、それから黒色の玄武岩へ変わって来たなと思っているうちに、そそり立つ岩だらけの道となってきた。目につくものは大きな岩石だけである。    通過していくのには幾つかの検問所があり、チェックが行われるが、そこには、緑の木々が見えるので、水場があるのだろう。この辺りは現在もベドウィンたちの集落だという。集落は道に沿って点在していた。そんな大きな岩場に身を寄せて生活していた。



201012 ★ シナイ山から約束の地へ ―十三日間の思い出に― (その1) 主任司祭 七種照夫

1 聖地巡礼の許可がおりて ぼくは聖地巡礼の許可がおりたら、3250年前のモーセが60万人の民を率いて、荒れ野を歩いた道なき道をこの目で見たいと思っていたことが、この歳になった初めて実現したのである。神のお恵みに感謝している。 この度パラダイス社の好意で、ぼくの案を呑んでもらい、タイトルを「シナイ山から約束の地へ」として、サブタイトルに「エジプト、ヨルダン、聖地イスラエル巡礼」とうたい、13日間をかけて14名で聖地巡礼を敢行したのである。個性にあふれ、一人も欠けることなく帰国できた。 聖地巡礼から帰ってきて10日ほど経ち、旅の疲れも取れた。カメラの出来上がり写真の整理やデジカメの中の画面を覗いて、ハテこれはどこの場所、位置、場面であったのかを思い出そうにも思い出せない。あの時解説者は上手に話してくれていたので、その時は分かったつもりでいたが、今整理して画面を説明しようとすれば、自分の説明が実に怪しいのである。全くしょうがない。

2 カイロの初日の社会見学 ギガ・ピラミッド、スフィンクスを見学した。いろんな機会にTV、新聞報道、絵本、絵葉書で目にしていたが、実物はまた格別である。ぐっと迫りくるものがあった。スケールが実に大きい。まさに圧巻である。カイロ市内を流れる川 るナイル川は絵になる。次にエジプト考古学博物館を見学した。ここにもツタンカーメンなどエジプトを代表するものから、無名なものに至るまで館内にぎっしりと収納されているのを見て、宝の山だと感じた。時間がないため、最後は走り回って見たので、何が何だか分からなくなってしまった。 しかし、カイロで特記すべきことは、「最古の教会」と呼ばれ、「聖家族の教会」とも親しまれている教会のことである。ヨセフとマリアと4、5歳児のイエス。ヘロデ王の殺害の手から逃れるためにエジプトまで逃避行をしたと伝えられている。聖家族が一時滞在したといわれる場所がギガのカイロにあった。歴史伝承とは言え、確かに古い小さな教会がその場所を包み込むように守っていると思えた。 もう一つは、聖マルコ大聖堂(コプト典礼)を見学した。天井や壁面にはびっしりとイコンで飾られていた。使徒マルコがギガまでやってきてキリストを宣教し、当地で殉教したと伝えられている。この大聖堂で最初のミサをささげた。みんな大声で歌った。それからカメラでバガバガ撮りまくった。

3 カイロでの貴重な収穫 有名な考古学者吉村先生はエジプトでも知られている。彼の解説を聞いたことがあったが、百聞一見に如かず。さらに良かったのは聖家族の一時滞在とマルコ伝道の軌跡を見たのは、大収穫であった。



201011 ★ 終わりはまた始まりでもある ―年間主日の完成― 主任司祭 七種照夫

1 王であるキリストは年間主日の完成 死者の月十一月も半ばになり、来週は王であるキリストの祭日をもって年間が終わります。終わりはまた始まりでもあります。十一月二十八日(日)は待降節がはじまり、主日はA年にかわります。 ところで、季節としてはただ今晩秋ですが、朝夕は急に冷え込んでまいりました。思えば、七月、八月のあの過酷なまでも猛暑も、喉元過ぎれば熱さを忘れるように過去の語り種になってしまいました。

2 聖地巡礼への旅立ち    さて、明日(十五日)から、ぼくは生まれて初めて、十三日間の日程で聖地巡礼の旅に行ってまいります。それはぼくの信仰の原点でもあるイエス聖誕の地だからです。七十五歳になってはじめて、聖地へ行けることは実に嬉しい。これはぼくに与えられた恵みだからです。実はこれにはパラダイス社との出会いがあります。秋田教会在任中の出来事がその始まりです。東北三県の三大祭り(青森ねぶた祭り、秋田の竿灯祭り、仙台七夕祭り)の二つ、青森と秋田を中心に三日間の日程でパラダイス社が企画し、ぼくに同行してほしいと依頼され、断りきれなくてつい承諾してしまったのです。それがきっかけで、秋田方面に向かっている時に、観光バスの中で皆さんに聖地巡礼を提案いた しました。それで今回の聖地巡礼の同伴司祭にされてしまったのです。  巡礼のパンフレットに、ぼくの挨拶文の中で、同伴司祭はぼくだと書きました。そうしましたら、愛知県、静岡県を中心に十三名の方が申込まれました。  紀元前一二五〇年ごろモーセが六〇万人を引導して、シナイ山の麓までやってきて、テントを張ったところからはじめて、荒れ野の四〇年、ネボ山、モアブの平原、ヨルダン川、エリコ、エルサレム、死海、ガリラヤの湖、ナザレなどを訪問して旅を終えるコースを企画しました。その行く道々で小さなものに出会うことによって、小さな喜びに胸を躍らせられたら、ぼくは最高だと思っています。

3 王であるキリストはいつ現れるのか!  それは主の再臨の時です。イエスは「目を開けて待て」と云われました。病者が癒やされ、足の萎えた人は立ち、目が開かれ、耳は聞こえ喜びがこだましているか。罪人は回心し、神に向かっているか。パンや魚の数も増え、群衆に行き渡っているか。重い皮膚病を癒やされたあのサマリア人のように、キリストのもとに来て与えられた恵みに感謝しているか。イエスは〈神の国はあなた方の間に〉あると云われたが、「人は皆兄弟」として互恵関係の中で恵みを分かち合っているか。主はそこにおられる。



201010 ★ 十月はロザリオの月 主任司祭 七種照夫

1 生活のただ中でお祈りをしよう! ロザリオの祈りはわたしたちの生活の中で、手っ取り早いお祈りの一つです。これは素晴らしい単純で素朴なお祈りです。信徒ならば誰でもロザリオを持っています。単純なお祈りだから説明を必要としません。 奥義(玄義)を唱えて、直ちにマリアの祈りへと移行しますが、奥義そのものは事前に予備知識を必要とします。たとえば、「神の母聖マリア」「被昇天の聖マリア」「無原罪の聖マリア」などは信仰宣言の一つであり、「お告げの聖マリア」「ロザリオの聖母」などは神学的考察の宣言であったりしますので、きちんとした理解がなくてはならないのは云うまでもありません。問題はロザリオを手に持って祈ることです。〈それではこれから、さあ、祈りしよう〉と心をマリ様に上げてお祈りを始めるのです。

2 祈りとは、意識を神に上げることです  今週日曜日の説教で、何回ゆるせばいいのかとペトロの質問に対して、イエスは〈7の70倍せよ〉とペトロに答えられました。490回もゆるすことなのかと反論することもできるとごミサに出席された方に申し上げました。回数とか度数を並べ立てても、それは神のお望みではないというのがイエスのお考えです。徹底的にゆるせという意味で、答えられました。イエスの時代にもユダヤ教徒は一日に7回祈り、週に一度は断食し、モーセのおきてを守る ことに専念していました。  しかしイエスは、それは人に見せるための偽善的な祈りであると断定されました。また回数や度数による信仰行為は本物ではないと明言されました。だとすれば、私たちの信仰の考え方もイエスの思いに変えていく必要があります。〈この桑の木に向かって、ガリラヤの湖に根をおろせ〉と言えば、そうなる信仰、これです。根拠は以下の通りです。〈神にお出来にならないことは何ひとつない〉というイエスの絶対的な確信に満ちた父への信頼関係、親子の絆です。父と子の関係の上に出来た絆を私たちは忘れてはなりません。イエスは父なる神のみ言葉に信をおく生き方を使徒たちに教えられ、時空を超えてその教えを私たちにも継承させてくださいました。  ここに、意識の糾明と罪のリストの糾明を取り上げて説明いたしますと、イエスは罪のリストから調べ上げて何回、何度といった糾明の仕方を避けて、意識の糾明の仕方(心の動き、感性表現)に変えるようにお話されました。罪をあえて取る瞬間、心の動きに気持ちはどのように反応しているかをキャッチします。“イエス様、御免なさい”と素直に謝ることが出来るようになります。  私たちは具体的な生活と信仰が遊離しないよう神との関わりを大事にしていきたいと思います。



20109 ★ 敬老の日を迎えるにあたって ―高齢者の失踪事件と年金授受― 主任司祭 七種照夫

1 失踪する高齢者の悩みと悲しみ 100歳を超えた高齢者の中で、8月16日のTVニュースで現在249名が所在不明であると報道されました。日を追っていくうちにますます増えていくと思われます。不明者の中で一番多いのが、出かけたまま帰ってこない年寄りと次に身寄りのない年寄りだと云います。 60歳以上の高齢者では、失踪者が1万2千人を超えていると云います。このように現代社会の中で家庭の危機的状況は深刻です。離婚など家庭崩壊が取り上げられていますが、その原因は一体何なのでしょうか。人には誰でも云えない家庭の秘密があります。ただ今、実際に親子の絆や夫婦の絆はタガが緩んできています。これは危険です。 100歳を超えた方々の過去の歴史を振り返りますと、太平洋戦争の悲惨な体験があるように思います。強制的に戦争に駆り出された息子と家族との離別の悲しみは、終戦によって喜びに変わったわけではありません。戦地で生き残った者が復員して帰ってきてみれば、焼け野が原で我が家は跡形もなく無残に破壊尽くされ、父母や兄弟とも死に別れ、身寄りもなく失望落胆していてもはじまらず、力を振り絞って自立せざるを得なかった大変な時代であったに違いありません。その中で、所帯を持ち、努力して今日の家庭の基礎を築かれたのではないでしょうか。 今、老後を迎えて、山波に沈む落陽を見れば幸せな日々になるはずなのに、逆に孤独感に襲われ、亡き父母や兄弟と親しく話す機会を戦争によって寸断されたことを無念に思い、幼い日の楽しかった家庭の絆を生涯忘れ去ることはできなかったに違いありません。そんなトラウマにおそわれ、失踪したのではないでしょうか。残された家族は、なぜ出て行ったのか分からないというけど、その意味では悲惨な戦争体験のトラウマはいまだ終わってはいないと云えます。

2 夫婦や家族は神との強い絆に結ばれているか  ぼくは結婚講座で、夫婦や家族の絆について詳しく話すことにしています。ここで簡単に云いますと、夫婦の絆とは神に夫婦として愛と忠実を約束することにあります。夫婦が切っても切れない絆とは神に誓う言葉にあります。言葉に忠実でないと、いつでも切れます。一方、家族の絆とは、血のつながりにあるので、産み育てることに責任を取らなければなりません。しかし現に、夫婦も家族もその絆を大事にしないものだから、簡単に離婚し、家庭暴力などで家族の絆にひびが入り、バツ1バツ2という離婚者がいます。また、息子や娘や孫が年寄りの死亡届をせず、生存しているかのように見せかけ、高齢者年金を騙し取っていたという報道。そんな中で、信仰に生きている高齢者が当教会にもいます。



20108 ★ 聖母被昇天祭と終戦記念日 主任司祭 七種照夫

1 8月15日は終戦記念日 1945年8月15日は第二次大戦(太平洋戦争)の終結の日である。国民学4年生だったぼくはその日のことを憶えている。その日は聖母被昇天祭の日であった。ぼくのふる里の教会の信徒たちは、いつものようにミサに与かり家路に着いた。夕方になったら、大人たちは誰から聞いたのか、“戦争が終わったとよ”とひそひそ話をしていた。 当時は、軍国主義一辺倒で、軍人による政治権力が幅を利かせていた。キリスト信者は外国の宗教の信奉者として非国民呼ばわりにされ、国賊のような扱いを受けていた。国民学校の時から、“ヤソ!、クソ!、ミソ!”と未信者から侮辱され、宗教差別を受けていた。今でもその言葉を思い起こすと寒気がする。 その時、ぼくは“戦争は終わった”と大声で喚きたかったが、周りは悲しみに沈んでいたので、ぼくだけが喜ぶわけにはいかなかった。天皇陛下のためにこの命を捨てずにすんだのは、マリア様が日本の信者をアメリカから救ってくださったと信じたからである。すでにぼくは予科練に入隊して、神風特攻隊として敵艦目がけて、華と散ると決めていたのである。その理由は簡単である。“ヤソ”と侮辱されたくなかったからである。

2 ふくれまんじょうの祝い日 長崎の信者の田舎では、8月のマリア様の祝い日を《ふくれまんじょうの日》と呼んで、かからの葉を下敷きにした「酒かす饅頭」の手作りをそのように呼んでいた。信徒はミサに与かり、教会から家に帰って、お昼をみんなでまんじょうを頬張る。 それが時のなれの中で都会でも、お盆との関わりがあって盆踊りに変更したり、そうめん流しになったり、焼肉焼きそばに変えたりして、今日まで聖母被昇天祭は信徒と親睦会を継続してきた。  五反城教会も、去年まで聖母被昇天祭のミサも午後5時から初め、夕べのミサに参加した信徒と一緒に焼肉、焼きそばいただき信徒の親睦を深めてきたけど、残念ながら今年からは、人で不足の理由で、取り止めになった。小教区の期待が形を変え始めてきている。

3 時代の激流に呑まれながら:  先日、天野祐吉さんが相撲界の再生について意見を述べていた。厚い壁で囲って外から見えないように隔離しておけば、世間の風を入れないで済む。そうはいかないので、伝統を壊しながら、伝統を守っていくのがいい。なるほど、第二バチカン公会議開催の閃きを、教皇ヨハネ23世はアジョルナメント(現代適応)と言明されました。聖母マリア崇敬も神学的見解や教義に変更されながら、その時代を生きる信徒によって信仰も守られていくのである。



20107 ★ 小教区は信徒の支えがあってこそ ―継続は小教区の力― 主任司祭 七種照夫

1 教区の福祉セミナーを成功させるために 今年5月に、小教区内で小さな福祉活動を起こすためにはどうすればいいのか、それに応えるために社会福祉委員会から小教区に呼びかけてみようか、それが手っ取り早いし、それがベターだよねと結論に達し、早速「教区・社会福祉セミナー」を開催しようということになりました。 2009年5月、野村司教様から数名の方が社会福祉委員に委嘱され、会合にお出でになったが、戸惑い気味で、どんな仕事があるのかと質問を受けました。それがヒントとなり、各小教区に代表者を送ってくださるよう、ご案内を差し上げました。あいにく小教区から2名の神父様が出席されましたが、信徒の代表者は一人もいませんでした。 一方、各地域で活動されている方たちで20余の団体から出席してくださり、素晴らしい分かち合いができ、第1回の社会福祉セミナーは成功裡に終わりました。カトリック新聞の一面に、教区の「第一回社会福祉セミナー」報告が7月11日(日)第4059号に記載されています。

2 自分流の社会福祉の取り組みについて  東京・吉祥寺教会(4年)を振り出しに、1970年4月から南山教会(11年)、知立教会(3年)、五反城教会(5年)、ルドビコ小神(7年)、秋田教会(7年)を経て2004年4月五反城教会に再就任、今年で6年、前回→ と併せると11年になります。五反城教会での宣教司牧活動も長くなってまいりました。名古屋教区に帰ってくると、野村司教様から再び社会福祉委員長の委嘱を受け、遠慮しながら承諾しましたが、後期高齢者となって恐縮しております。  かつて愛の実行事務局時代に、車いすの仲間と一緒に法人化に向けて三笠宮殿下をはじめ、名古屋の財界の方々にも働きかけていただき、1990年(アーノルド小神1年目)5月、「AJU自立の家」として法人格をいただき、今年5月創立20週年の祝賀記念をいたしました。 1985年(五反城)に教区・カ障連の「第一回障害者のつどい」を開催して、今年(7月18日)安城教会で25回目の「障害者のつどい」を実施することができました。さらに、2年遅れの1987年(五反城)に教区の「第一回障害者の黙想会」を開催して、今年2月23日に南山学園研修センターで、23回目の黙想会を終えております。

3 小教区も同様、聖霊体験を  福音宣教を継続していく中で、聖霊が小教区の信徒に力強く働きかけ、わたしたちに勇気と希望を与えてくださいます。人生いろいろ。信仰いろいろ。宣教いろいろです。自分の背丈に合った形で、真実の信仰を継続していけば、小教区も時代の波をかぶりながら、真の港にたどり着くことができます。



20106 ★ 五月の当教会総会が終わって ―承認と決意を新たに― 主任司祭 七種照夫

1 総会総評(主任) 今年度は信徒から直接教会運営と管理の費用について疑問点や質問もなかったので年間を通して教会委員会が決定したことには、大筋で認められたと思っています。教会会計報告書を承認していただいて、感謝しています。 次に、教会の活動部会ですが、@男性部 A女性部 B教会学校 C青年会 D一粒会 Eレジオ・マリエ F五反城カリタス(福祉)G五反城共助組合 H建設実行委員会 I文化教室の活動等を教会として承認しています。その中で@〜Cまでは信徒会が活動費を援助しています。その他は独立採算を原則にして活動していただきたい。 また、当教会の各活動部会が独自性を発揮して、宣教活動を実践してもらいたい。部会のリーダーは部会が盛り上がるように努力していただきたい。故パウロ六世は『福音宣教』回勅で、《宣教活動をしない教会は、存在理由を失い、自然消滅する》という名言を遺しています。

2 建設実行委員会からの報告  プロジェクト部会の宮崎さんから報告がありました。1年間の推移と進捗状況を詳しく説明されました。過去3年間、建物の設計図を見てはああでもこうでもないと討議し、設計図も何回も書き直しては、3年間検討してもらちがあかないことに気づきました。 この3年間、教会募金の現状はどのようになっているのか、特に一世帯から募金していただいているのを主任が知りたくて、募金会計から一覧表を提出してもらいました。それを見た結果、8阡万円を捻出するのは現状では不可能に近いことを建設委員会の席で話されました。信徒数685名のうち申込者が164名で、3月現在で、2阡147万3千550円となっていました。そのうち申込はしたものの、まだ45名はO円(未納)でした。現実は厳しいものがあります。主任の主張は3阡万円を各世帯から奉納金としてささげられたとき、ゴーサインを出すと約束しています。先回の会議で5阡万円をベースした設計図を創ってもらった。13坪の平屋木造建てと文化センターの補修費は、6阡万円をちょっと超えているが、この前後が決定値だと思うのです。  そのため、第一段階として旧鶴巻宅と旧吉川宅と青年会のコーヒー店を取り壊し、更地にして信徒のための駐車場と決定し、ボーイがマリア館に移転した後、8月初旬には建物の取り壊しをはじめます。

3 建設募金を前倒ししてでも工事が始まるよう、3阡万円を目安に募金活動を推進していただきたい。当教会の50周年創立記念日は2012年5月となっています。後2年と迫ってきています。記念誌も作ると決定していますが、どうですか。



20105 ★ 聖母月に「聖パウロ年」を想う 主任司祭 七種照夫

1 風薫る聖マリアの季節 教会のマリア庭園のつつじの花は一度咲き終えましたが、二番咲きがやってくるものと期待しています。五月はマリア様にささげられた月です。月並みですが、マリア様の崇敬を忘れず、ロザリオの玉をつま繰るのを忘れないようにしたいですね。 さて、来る5月17日(日)ミサ後引き続きマリア庭園の前で恒例のマリア様への賛美の歌とお祈りをささげることにしています。

2 小教区で「聖パウロ年」を祝うことに 現教皇様は去年の6月29日から今年の6月28日までの一年間を「聖パウロ年」に定められました。それは聖パウロの生誕の年が紀元7年〜10年の間とされているため、聖パウロの特別聖年記念日とされました。使徒言行録を読みますと、復活のイエス・キリストが異邦人宣教者に聖パウロを召し出されたとあります。私事になりますが、聖パウロの十三の書簡はとっつきにくく、これまでぼくは聖パウロの書簡を斜め読みしていました。聖パウロの書簡は敬遠気味でした。 本当にパウロ様には申し訳なく思い、深く反省しています。今まで聖パウロ年と口では云っていましたが、たまたま当教会で「聖パウロ年」を記念して講演会を 開いたらどうかと典礼委員から話が持ち上がって、積極的にアタックして講演者を指名し、神言会の江川神父に了解をとったというのです。それで慌てたのはぼくの方です。対話集会にするかパネラー形式にするか話が大きくなっていくので、それに困惑したのもぼくです。それで、ぼくが聖パウロの本を読まなければいけないと思い、早速パウロ書店へ行って一〇冊近く本を買い、読み始め読み進んでいくうちに、ぼくは聖パウロについて見直しが必要だと感じたのです。現在、ぼくは聖パウロに対する見方が変わってきました。 たとえば、聖パウロの回心とはどんな回心なのか。異邦人の器として召し出された聖パウロの宣教魂とは。聖パウロの律法の義と復活のキリストの義の相違点。異邦人キリスト者と割礼を受けたキリスト者との間で板挟みに会った聖パウロの問題。十二使徒と聖パウロの立場。月足らずの聖パウロの使徒的使命とは。聖ペトロと聖パウロの位置づけ。散らされた民の各地での特にシナゴグでの聖パウロの宣教。困難を極める聖パウロの宣教活動とは。誤解を招くような聖パウロの人格性を問う。また聖パウロの同伴者、協力者たちとの意見の相違点があるのはなぜか、などなど。

3 宣教の現状分析  なぜ、今聖パウロなのか。それは聖パウロの宣教活動と現状とか重なり合っているからです。



20104 ★わが主のご復活の記念をお慶び申上げます。―受洗者の皆さんとご復活の喜びをともにー 主任司祭 七種照夫

1 ただ今、洗礼をお受けになった方々に喜びのご挨拶を申上げます。これからずーっとわが教会の聖堂のベンチを温めてください。ベンチを温めるとは、いつも主日のミサに与り、御聖体をいただき、司祭の説教に耳を傾け、信仰の力を強めるという意味です。 受洗のための準備は一年を要しました。昨年4月からマタイ福音書によるイエスのみことばの手ほどきをしてきました。イエスのみことばに対してわたしの体験を交えて話をすすめてきました。マタイを読み終わると洗礼志願者に「イエスとわたし」というテーマで感じたままを文章化して、発表してもらうことにしました。志願者が自分の文章に納得していただき、もし納得がいかなければ書き直してもらうというやり方で、2回ぐらい書き直しがあります。というのは、わたしの識別がすぐその後に続くからです。つまり、志願者の心の中にイエス様が生まれているかどうかを識別するためです。今回は五人でしたが、志願者全員心の準備が出来ていました。

2 続いて、1月から3月までカテキズム(要理教育)の勉強をしてきて、4月1日をもって終了しました。ただし受洗後の祈りの仕方とかその初歩的経験の 必要性を感じましたが、時間が足りず、未消化のまま終わりました。 内容は@五感をもって祈る祈り、A心の動きの捉え方、Bベネディクトの祈り、C黙想・念祷・口祷の仕方、D文言の祈り、E意識の集中、F体で祈る祈り、Gファンタジーで祈る祈り、H心で祈る祈り、Iベラカーの祈り(賛美と感謝)、Jベラコットの祈り(執り成しの祈り、回心の祈り)などです。

3 さて、信徒の皆さんには復活の信仰体験をお話していただきたいのですが、どうしたらいいのか。たとえばですが、信徒の皆さんの中から、自発的にご自分の思索をまとめ発表していただくことが出来ないものか。テーマは以下の通りです。@ナイムのやもめの息子を生き返らせた(ルカ7)イエスの思惑は何か、Aヤイロの娘とイエスの服に触れた女(マルコ5)を通して復活の前兆をどのように説明するか、B役人の息子のいやし(ヨハネ4)と復活の関係、Cラザロの死(ヨハネ11)とイエスの死との意味、D高い山の上でのご変容(マタイ17)はわたしたちに何を語りかけているのか、など信徒の皆さんにお願いしたい。

4 毎回司祭の主日の説教があるが、たまには信徒が復活信仰のお話をしてもらうのは、いかがでしょうか。皆さんがイエスの復活をどのように味わっておられるか、わたしにとっては大いに興味があります。



20103 ★春の季節と四旬節―罪の償いの実践―  主任司祭 七種 照夫

1 春は新生の誕生 英語の「Lent」(レント)は「四旬節」と訳されています。レントをドイツでは「春季」と呼ばれている、と。確かに四旬節は春季、春分の時節に当てられています。春は「新しい命」が誕生する季節です。四旬節を迎えた私たちが信仰者として再びキリストのみ言葉によって活性化されるのには絶好の機会です。

2 春一番の嵐 立春(2月4日頃)を迎えた後、初めて吹く強い南寄りの風を春一番と呼んでいます。冬の長い期間中地面に落ちたものは人に踏みつけられ、落葉も粉々になってしまい、春一番の嵐に吹きつけられ粉塵となって舞い上げられ、遠くへ飛んで行ってしまいます。 このような光景を見て、四旬節は春の季節と抱き合わせになっていることに気づかされます。これが命の季節、再生の季節といわれる所以でしょう。四旬節を新しい命の始まりととらえるか、霊的刷新ととらえるかは人によって受け取り方が違います。

3 教会のおきての第2条 四旬節の罪の償いのわざを「掃除」に役立つ道具とみれば、「ゆるしの秘跡」はそれに順当します。現在、「教会のおきて」は教会の中でどのように位置づけられているのか、皆さんはご存知でしょうか。もちろん教会のおきては現在でも有効ですし、また有効活用しなければなりません。「教会のおきて」はバチカン公会議以前には六カ条になっていましたが、現在は五箇条にまとめられています。つまり大斎と小斎の項目が一つにまとめられて、第二条のおきては「少なくとも年に一度、罪を告白すること」になっていて、これは私たち信者の務めです。第三条の聖体拝領の期間は少なくともご復活祭の頃にとすすめられています。それで、ゆるしの秘跡を受ける時期に関しては、四旬節中が一番適当だと思います。一歩踏み込んで言えば、罪の償いの期間だからです。

4 施し・祈り・償いは四旬節の三本柱  今回の巻頭言は償いのわざに焦点を当てました。罪の償いのイメージとして「掃除」にしました。心をきれいに、心を洗い、心の汚れをとるなどと想像できます。心の傷を癒やしていくのには、現在信徒の黙想会を計画し、同時に共同回心式と組み合わせています。  今年の黙想会は3月14日(日)9時ミサに引き続き、フィリップ神父の講話と共同回心式と聖体賛美式で終了することになっています。告解の糾明には罪の意識の糾明に切り替えて頂きたいのです。心から罪を悔い改めるのには罪を心の動きでとらえることが、とっても大事だと説明しています。



20102 ★四旬節を有意義に過ごすために  主任司祭 七種 照夫

1 教会の典礼暦の一般原則の中の一つ、四旬節を取り上げれば、四旬節はご復活祭を盛大に祝う準備期間だと言える。話は変わるが、準備期間を設けるのは四旬節に限ったことではない。婚約者は挙式日が決まれば、結婚式までに必要な条件をクリアーしなければならない。婚約者は少なくとも一ヶ月前から心の準備のため結婚講座を受講する必要がある。  洗礼志願者は洗礼を受けるために少なくとも一年間の準備期間が必要となる。その間、聖書の読み方のコツと手ほどき、イエスの生涯を学び、イエスの生き方に共感し、カテキズムの勉強、使徒信条と信仰宣言、七つの秘跡、祈り(霊性)の初歩的体験をする必要がある。  中学生を含む堅信志願者も大人としての信仰生活の自覚と聖霊の充たしを受けるため七週間の準備期間を必要とする。当教会では僕の私案のテキストを用いて中学生と入信者の信仰の再教育を行っている。また司祭叙階の志願者は長期にわたる準備期間(六年〜八年ほど)を要し、小神学生からだと六年をプラスしなければならない。

2 話を教会の典礼暦の一般原則に戻すと、私たちはシーズンを節分とか節目(ふしめ)というが、教会の典礼暦にも四つの節目がある。即ち待降節、降誕節、四旬節、復活節が一年のサイクルの中にある。その中の四旬節に焦点を当てて、これからお話しをしたい。 これから始まる四旬節はイエスの復活祭を祝う準備期間として六週間を用いるが、灰の水曜日(十七日)から受難の主日まで四〇日間をかけ、祈りと断食と償いをもって精進していきたい。私たちは神から受けたお恵みに感謝すると同時にこの期間中、イエスの受難とご死去とご復活を祈念して、四旬節の黙想会やゆるしの秘跡を受けるように強く勧めるのは、私たちの信仰の振り返りと見直しが必要とされているからである。

3 四旬節の本質的部分は祈りと断食と償いにある。主の祈り、マリアの祈り、栄唱の基本的祈りも大切だけど、内奥を満たす深い祈り、即ち聖書による祈り、沈黙の祈り、静寂の祈り、心で祈る祈り、体で祈る祈り、ファンタジーで祈る祈りもあるけど、信徒は時間がとれないのである。  断食について言えば、聖木曜日から聖金曜日、聖土曜日まで過越の聖なる三日間にこだわりたい。私たちは怠惰な生活習慣を見直し、意識を変える必要がある。聖金曜日の断食を、イエスのアガペ(犠牲)の愛、救いのみ業の完成の日として過ごす一日とするのはどうだろう。

3 罪の償いの精神を喚起したい。ゆるされた罪の有限の罰を神のみ前でゆるしていただくために、その一具体化として四旬節の愛の献金もその一助としたい。世界の貧困層、生活困窮者のため



20101 ★二〇一〇年度の教区年頭書簡の概要―小教区の取組みの前に―  主任司祭 七種 照夫

1 二〇一〇年の新年を迎え、今年の全てを主イエスにお捧げしたいと思います。改めて神から豊かな祝福と恵みをいただけるよう自己奉献または家庭奉献を決意いたしましょう。  さて、二〇一〇年度の名古屋教区年頭書簡を今年初の主日で朗読し、信徒の皆さんに解説しました。私たちは司教様から「受け入れ合い、生かし合う信仰」という課題をいただきました。今年も「信仰」が書簡の骨子になっていますが、それを全信徒に提言されました。  教区の信徒が住む地域配置図見れば分りますが、ここ数年ブロックごとにその地の利を得て、海外から多くの移住信徒が各地域に住み着き、各小教区に外国人信徒が転入してきて、従来型の日本人信徒から、多言語の入り混じった共同体へと様変わりして来ました。たとえば、わが小教区でもミサの中で聖書朗読第一か第二で、英語で朗読するようになりました。また、教会学校の子供たちにも変化が現れています。  現在、教会学校でもフィリッピナの家庭の子供たちの名前が連記されています。地域の小学校も同じく彼らと共に肩を並べて勉強しています。彼らが話す日本語は問題ありません。また一段と国際化が進んできました。

2 今年度の年間の課題は、名古屋教区が海外から労働移住者を受け入れ推薦することによって、共存共生を図っていかなければなりません。各ブロックを見ても、愛知県下の地域産業には多大な労働力を必要としています。外国人労働者の必要としています。日本では外国人労働者の必要があり、外国人労働者の協力がなければ、日本国内での生産力が失われるので、工場地帯に住み分け、近隣の小教区は彼らと連携しあって、盛り上げていかなければなりません。現在、日本経済は疲弊し、アメリカの深刻なリーマンショック以来、アメリカ経済が下落し深刻化し、正社員以外、非正社員の派遣組みが首切られる事態に陥ってしまいました。ここ数年本当に厳しい状況下にあります。  このような視点から、小教区は多種多様な生活文化や言語を持っている人々を受け入れ、キリストに結ばれて、愛と信仰を共有し、共生していかなければなりません。たとえ、多言語多文化や多様な価値観の違いがあっても、キリストの福音的価値観を共有することによって、信仰を活性化していくことが出来ます。

3 終わりに、国内外の信徒同士が価値観の違いを乗り越えて協力しいかなければなりません。今年度の司教様が提言されたテーマを要約すれば、これから信仰の受容力と活性化させるために具体的な提案をしていくことになります。



200912 ★待降節の迎え方 ―第一と第二の来臨の追憶―  主任司祭 七種 照夫

1 C年の待降節が始まった。教会典礼暦によれば、一般原則として次のように解説されている。待降節とは「神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時にその追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある」ということでる。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望のときであることを強調して信徒の皆さんに提示しなければならない。

2 これまでどちらかと言えば、ぼくは待降節の黙想会を計画して、せめて信徒が毎日の労働から解放されて、ゆっくりとした雰囲気で自分を見詰め直してほしいと願い、主日のミサと引き続き司祭の講話、ゆるしの秘跡、聖体賛美式など午後3時まで教会で過ごしてほしいと思うのである。信仰生活の振り返りと待降節の心の準備とゆるしの秘跡を受けて、いいクリスマスを迎えてほしい。 ゆるしの秘跡は、しかし信徒にとっては魅力がないのか、ゆるしの秘跡は敬遠されがちである。年に一度もゆるしの秘跡を受けずに、平気でミサのとき聖体を拝領するのを見て、愕然とした。習慣化されてミサの流れの一つととらえていることにぼくはびっくり仰天した。教会学校のときの信仰教育のまま大人になってしまって、公会議後のカテキズムの再教育を本人が怠ってしまったのである。 公会議以前は年に1度の告解をせずに、ご聖体拝領すれば汚聖の大罪になると言われていた。さらに、葬儀ミサにもなれば、遺族の方々の中には何年もゆるしの秘跡を受けていないのに、聖体拝領のときに堂々と前に出てきて、手を差し出すのを見るにつけ、ぼくは我慢できず、お通夜のときに葬儀ミサでご聖体を拝領したい方は、告解をしてくださいと言明することにした。それは教会での成人式も同様である。ここにも問題がある。しかし、教会の六つの掟は現在でも有効である。

3 これでお分かりであろう。待降節になると司牧的配慮から、降誕祭を準備する期間中に心の清めとご降誕祭に相応しい態度を示すことで、クリスマスを迎えてほしい。降誕祭の典礼の基本方針にあくまでも、第一の来臨と第二の来臨に的を絞らなければならないが、ともすれば、愛と喜びに溢れた待望論から逸れてしまうかも知れない。

4 おわりに、雪国の秋田教会で体験したこと話すと、ぼくより一つ年上の彼がぼくの足になってあげると言うのだ。嬉しかった。彼の車で月曜の休日になれば、東北三県を股に掛けて遠乗りを楽しんだ。車の中では彼とよく信仰談義をした。彼が言うのには“神父さん、説教には期待するが、へんな理屈やお説教はいらない。神父さんよ、信徒に夢と希望をもてるような話をしてくれよ”と。



200911 ★賽銭箱に投入するやもめの姿 ― 十一月の死者の月にあたりー  主任司祭 七種 照夫

1 献金するやもめのお話が、なぜ十一月の主日にあるのか、ふと疑問に思った。年間第32主日のマルコ福音書はやもめが献金する姿を生き生きと描いている。結論から言えば、イエスがご自分をこのやもめと重ね合わせて見ておられるからである。このやもめがすべてを父なる神に委ねて生きていく決断をしたことにイエスが称賛されたのである。 マルコの記述では、手元にありったけのお金、一クァドランス、つまり生活費のすべてを神殿の賽銭箱に投げ入れたやもめを柱の影からじっと見ておられる。一方、やもめ以外の人々は余裕のある生活だから、財布の中から何かの目的のためというのではなく、賽銭箱にたくさん投げ入れている様子を柱の影から同じように見ておられる。 ここでは、やもめとそれ以外の人々の賽銭箱が対比されている。

2 さて、やもめの金銭感覚について言及したい。その当時家計簿があって収支を記帳する慣習はなかったに違いない。なけなしのお金をどのようにやり繰りしていたかは、母親の上手な使い道に頼るしかない。このやもめが生活原資を何処から得ていたかは、福音書には記されていないが、彼女の手元には一クァドランスがすべてである。生活の原資という天から考えてみれば、生きていくこと、暮らしていくこと自体が家族の生き方であり、家族の基本的な考え方であ いくこと自体が家族の生き方であり、家族という基本的な考え方である。人間としての人生観とか信仰教育とか日常生活の暮らしぶりなどがある。ここでは彼女の生き方が問われているのである。

3 福音書には貧しい人、貧しく生きる人について言及されている。マルコ5章には、12年間も出血病でわずらっている女がいて、医者を信じて治療費を払い続け、ついに全財産を使い果たした彼女が次の行動に出た。イエスのうわさを聞き、ぜひイエスに会っていやされたい。イエスの着ている衣服の裾にでも触れたらいやされるのではないかと思い、モーセのおきてを破ってイエスに近づき、裾に触れていやされた。    また、「放蕩息子」のたとえ(ルカ15章)は有名である。父親から弟は全財産を兄と分けてもらい、自分の分け前を換金して遠国に旅立って、そこで放蕩の限りを尽くし、無一文になってしまい、豚の世話をしてまで上を凌いだが、ついに力尽き、ふと我に帰り、父の家には食べ物もたくさんある。使用人として扱ってもらい生きていきたいと。弟は全てを失ったとき、自分の生き方を転換した。180度の回心、メタノイアである。 このように新たに生きることは、自分の生き方



200910 ★「あかしする信仰」と信仰体験談 主任司祭 七種 照夫

1 民主党政権になって  民主党が政権をとってまだ100日も経っていないのに、鳩山首相は5日目にアメリカに飛んで行って、オバマ大統領と初の会見を行った。続いて国連総会の会場において出席している各国の首脳たちの前で、地球温暖化対策として日本が2020年までに温室ガス25%を削減すると国際公約をして各国の首脳たちだけでなく、国内外の人々を驚かせた。しかし世界的評価を受けた。 場所を変えて、オバマ大統領が主催して各国の首脳たちに核兵器削減を呼びかけ、彼らに同意を求めた。核兵器を所有している国々もオバマ大統領の呼びかけに賛同した。日本は唯一の被爆国として、たとえ核兵器を製造する力を持っているとしても、核兵器を造らず世界平和に貢献していきたい。各国の首脳たちもぜひ日本を訪れて広島、長崎を見てもらいたいとアピールした。 その席でも鳩山首相の政治理念「友愛の精神」をかかげて説明をされていたが、彼はこの「友愛」の出所を理解されていることと思われるが。この「友愛」はカトリック用語であり、福音的用語である。すなわち “友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない”(ヨハネ15、13)という。ラテン語ではFRATERNITAS、英語ではFRATERNITYという。 つまり「友への愛」である。

2 十月は「ロザリオの聖母の月」  今回は、なぜ十月がロザリオの聖母月と呼ばれるようになったのか、その歴史的背景をお話したい。時はトレント公会議(1545〜1563年)まで遡るのである。トレント公会議後のピオ五世のことに言及する。同教皇は公会議後の偉大な改革実践教皇として評価されている。特にピオ五世の最高の功績は、オスマン・トルコ大軍がヨーロッパ全土に侵攻し、キリスト教を壊滅させる勢いで進軍してくるのに対抗して、ベネチアとスペインが同教皇と同盟を結んで闘い、レパント港沖合でトルコ艦隊を全滅させ、大勝利を博した。そのとき同盟の軍艦旗には「ロザリオの聖母」が掲げられていたことから、ピオ五世は1571年10月7日の勝利を「ロザリオの聖母」の記念日とされた。

3 3名の「信仰体験」発表  教区年間テーマ「あかしする信仰」を具体化して五反城会では、十月二五日(日)9時ミサの中で司祭説教の代わりに二村、安井、早川さんが信仰のお話をしていただく。信仰の振り返りの時をもつことはいいことだ。ぼくは信仰体験の作り方を霊的指導者から教わった。祈りの指導も同じだ。指導者から「指導者は指導されなければならない」と教わった。



20099 ★ビアンネー神父を理想の司牧者として 主任司祭 七種 照夫

1 入道雲からうろこ雲へ 今年は真夏の入道雲を確かに見たなと実感がなく、人知れず夏が立ち去ってしまったようだ。立秋の季節感溢れる赤トンボも目にしなかった。確かに今までとは違って淋しい感じがする。 新聞によれば、この夏は天候不順の夏だったと報じている。北陸、東北、中国地方の場合は梅雨明けも特定できなかったという。また、北日本や日本海沿岸地方は日照時間が平年に比べて73%というのだから、野菜など不作で物価が高騰して家庭の台所に響いた。梅雨の期間も61日間で最長であった。 さらに、大水害が各地方を襲い、局地的豪雨もゲリラ化して各地に大きな被害をもたらした。特に山口地方では、洪水が介護老人ホームを直撃し、悲惨な状況となった。そこでは多くの人命が失われた。救助活動するにもままならず大いに支障をきたしてしまった。思えば今年も各地で天災による被害が多すぎた。

2 越前クラゲと環境汚染  環境汚染問題も深刻化してきた。たとえば越前クラゲの発生源は中国の近海にあるといわれている。中国人民の生活用水や工業用水に使用したものが、直接海に流れ込み、その汚水からクラゲが発生すると言われている。 一日も早く中国と外交施策による解決が求められる。クラゲが日本の海岸にたどり着くころには一メートル以上に成長しているから、漁師たちは漁をするのに厄介だし、そのために生活を脅かしている。かつてぼくが秋田にいたとき、男鹿半島の門前海岸で相棒と磯釣りを楽しんでいた。門前海岸でも夏間に大きなクラゲ群に遭遇すれば、釣りを楽しむなんてことはなくなり、せっかく休みに磯釣りに来たのにとクラゲを恨んだこともあった。お化けのような大きさに驚いたのである。  また、中国の火力発電所の石炭、工場の石炭使用による黒鉛が舞い上がり、気流に乗って、日本上空に達したときは、空気が汚染され、黄砂などによる人身障害を受けている。今回の民主党による外交手腕を発揮して、円満な解決を大いに期待したい。

3 彼岸花とお墓参り  二百十日も過ぎ、秋分の日が近づいた。仏教徒は彼岸になればお墓参りが恒例となっているが、今は彼岸花が咲く季節である。信徒の皆さんにも、教区の八事墓地で追悼ミサを行うというお知らせが届いたと思う。歳を重ねれば当然、自分の死後のことを思うと、お墓は自分で買っておこうと決めるだろう。ぼくは修道会員だから、お墓は多治見にある。若い会員に迷惑をかけないように、足腰が立たなく前に墓の側の修道院に移り住もうと思っている。



20097 体ごと天に上げられたマリア様へ ―八月はマリア様の被()昇天(しょうてん)(さい) 主任司祭 七種 照夫

1 マリア様にささげる 来月はマリア様の被昇天祭の月です。マリア様はもちろんお生まれになる前から人祖アダムとエワの原初の罪を取り除かれたお方だと物心つく頃から聞いて育ちました。今は大人ですから、マリア様の歴史的背景とか人類救済の神学をかじっているので、その辻褄(つじつま)を併せ持っています。

2 主日のミサに与る古里の信徒たち 終戦直後の長崎県下の信徒たちはじっと宗教いじめに耐え、世間様には目立たないように隠れて暮らしていました。その当時主日のミサに行くときは、一張羅(唯一枚の晴着)を着てミサに行くのが習慣でしたが、なければ洗濯したものを着てミサに与っていました。襟をただしきちんとした服装でミサに参加していました。 また、食べ物について云えば、戦後はますます食料難で普段の食事も貧しく、慎ましいもので我慢していました。長崎の田舎では麦ご飯が大半を占めていました。しかし大祝日ともなれば、おふくろは奮発してご馳走を振舞ってくれました。まず米のご飯がでました。さらにおふくろ自慢の煮しめ物がでました。貧しいことがいやだと思うことはこれっぽちもありませんでした。

3 被昇天祭と「ふくれ饅頭」 ぼくの国民学校時代、八月十五日が体ごと天に上げられたマリア様のお祝いと称して「ふくれ饅頭」のお祝いと言っていました。十五日近くなれば、おふくろは「ふくれ饅頭」づくりに大忙しでした。酒かすを混ぜてこねられた小麦の皮を延ばして、そこに小豆の潰しあんを包んで丸め、「くわっから」の葉を下に敷いて蒸すとふっくらと酒の匂いのする饅頭の出来上がりです。「くわっから」の葉っぱは蒸しても饅頭にくっつきません。これを生活の知恵というのでしょうか。おなかいっぱいいただきました。現在でも、平戸出身のAさんはぼくに「ふくれ饅頭」を差し入れてくれます。たまらんですね。

4 時の流れの中で 今年は戦後六十四年になります。半世紀を越えてきました。信徒さんは信仰の面でも大きなうねりの中を通り抜けて今日に至っています。その一つに、マリア様の被昇天祭のお祝いの仕方があります。 十五日は同時に第二次大戦の終戦記念日でもありますので、マリア様がこの戦争を終わらせてくださったと当時の信徒は信じました。ぼくも子供心に戦争が終わってほっとしました。学校ではヤソと侮辱され、宗教差別を受けたからです。戦後の被昇天祭の順応の仕方も日本のお盆と重なり微妙です。思考錯誤しながらマリア様のお祝いに盆踊りとか納涼会を取り入れています。



20096 ★宣教の熱をわたしたちに! 主任司祭 七種 照夫

1 五段城教会の記念行事 五段城パウロ年の記念行事として、524(日)江川神父様にお出でいただいて、9時ミサに引き続き、「現代と聖パウロ年」という題で講和をいただきました。参加者にはとても意義深い内容のお話でしたので、神父様には信徒一同に代わって心から感謝申し上げます。そういうことで、来る629日(月)をもって一年間の「聖パウロ年」を終了とさせていただきます。

2 福音宣教に関する五反城の現状と展開 福音宣教という視点から、現状を見ますと原始教会の基礎を築いたパウロの宣教を功罪に現在の福音宣教活動に困難さをみますと、遜色はないように思います。現代人はさまざまな価値観や世界観、人生観をもって、不安定な社会構造を構築し、そのシステムのなかでもがき苦しんでいます。特にこの一、二年アメリカのサブプライム問題から巨万の負債を抱え、経営が破綻し、日本経済にも波及し、想定外の百年に一度と言われる世界的経済危機に見舞われています。マネーショックです。アメリカ経済が疲弊し、世界的規模で失業者を出し、家庭を崩壊させ、失業者の自殺もうなぎのぼりになって来ています。庶民の生活もままならず、失望のどん底にあります。国による社会保障もなされていない。このように社会の現状分析をしますと、原始教会の時代背景と比較してみても、現代社会とそんなに大きく開きがあるとは思えません。

3 今年度の教区年間テーマ「証する信仰」を具体化していくためにはどうするか、6月の教会委員会で、この議題が話し合われ、最終的に大まかな纏めとして2、3人の「信仰体験」発表をしてもらおうと決めました。日時は10月25日(日)、9時ミサの中で、話してもらうことになりました。そこで私は、故パウロ6世の「福音宣教」を思い出しました。すなわち、教会が福音宣教者であること。教会自身が内部を福音化すること。もし教会が内的刷新をしなければ、教会は現代社会において存在理由を失うことになると話されたことです。

4 五反城教会の事故回心 私たち信徒が内的刷新をしようとすれば、まず自己変革からはじめるのです。それで中村区域とその周辺の人々にたいして五反城教会の存在理由を明らかにします。まず信徒の「生活の証」から始めるのです。信徒は地域の人々の中で、人を理解し、弱者を包み込み、自分の物を分かち合い、意見の違いを受け入れ、一致し協力していくことからはじめなければなりません。私たち信徒はみなこの「あかし」に召されています。



20095 ★聖母月に「聖パウロ年」を想う 主任司祭 七種 照夫

1 風薫る聖マリアの季節 教会のマリア庭園のつつじの花は一度咲き終えましたが、二番咲きがやってくるものと期待しています。五月はマリア様にささげられた月です。月並みですが、マリア様の崇敬を忘れず、ロザリオの玉をつま繰るのを忘れないようにしたいですね。 さて、来る5月17日(日)ミサ後引き続きマリア庭園の前で恒例のマリア様への賛美の歌とお祈りをささげることにしています。

2 小教区で「聖パウロ年」を祝うことに現教皇様は去年の6月29日から今年の6月28日までの一年間を「聖パウロ年」に定められました。それは聖パウロの生誕の年が紀元7年〜10年の間とされているため、聖パウロの特別聖年記念日とされました。使徒言行録を読みますと、復活のイエス・キリストが異邦人宣教者に聖パウロを召し出されたとあります。私事になりますが、聖パウロの十三の書簡はとっつきにくく、これまでぼくは聖パウロの書簡を斜め読みしていました。聖パウロの書簡は敬遠気味でした。 本当にパウロ様には申し訳なく思い、深く反省しています。今まで聖パウロ年と口では云っていましたが、たまたま当教会で「聖パウロ年」を記念して講演会を 開いたらどうかと典礼委員から話が持ち上がって、積極的にアタックして講演者を指名し、神言会の江川神父に了解をとったというのです。それで慌てたのはぼくの方です。対話集会にするかパネラー形式にするか話が大きくなっていくので、それに困惑したのもぼくです。それで、ぼくが聖パウロの本を読まなければいけないと思い、早速パウロ書店へ行って一〇冊近く本を買い、読み始め読み進んでいくうちに、ぼくは聖パウロについて見直しが必要だと感じたのです。現在、ぼくは聖パウロに対する見方が変わってきました。 たとえば、聖パウロの回心とはどんな回心なのか。異邦人の器として召し出された聖パウロの宣教魂とは。聖パウロの律法の義と復活のキリストの義の相違点。異邦人キリスト者と割礼を受けたキリスト者との間で板挟みに会った聖パウロの問題。十二使徒と聖パウロの立場。月足らずの聖パウロの使徒的使命とは。聖ペトロと聖パウロの位置づけ。散らされた民の各地での特にシナゴグでの聖パウロの宣教。困難を極める聖パウロの宣教活動とは。誤解を招くような聖パウロの人格性を問う。また聖パウロの同伴者、協力者たちとの意見の相違点があるのはなぜか、などなど。

3 宣教の現状分析  なぜ、今聖パウロなのか。それは聖パウロの宣教活動と現状とか重なり合っているからです。



20094 ★わが主のご復活の記念をお慶び申上げます。―受洗者の皆さんとご復活の喜びをともにー 主任司祭 七種 照夫

1 ただ今、洗礼をお受けになった方々に喜びのご挨拶を申上げます。これからずーっとわが教会の聖堂のベンチを温めてください。ベンチを温めるとは、いつも主日のミサに与り、御聖体をいただき、司祭の説教に耳を傾け、信仰の力を強めるという意味です。 受洗のための準備は一年を要しました。昨年4月からマタイ福音書によるイエスのみことばの手ほどきをしてきました。イエスのみことばに対してわたしの体験を交えて話をすすめてきました。マタイを読み終わると洗礼志願者に「イエスとわたし」というテーマで感じたままを文章化して、発表してもらうことにしました。志願者が自分の文章に納得していただき、もし納得がいかなければ書き直してもらうというやり方で、2回ぐらい書き直しがあります。というのは、わたしの識別がすぐその後に続くからです。つまり、志願者の心の中にイエス様が生まれているかどうかを識別するためです。今回は五人でしたが、志願者全員心の準備が出来ていました。

2 続いて、1月から3月までカテキズム(要理教育)の勉強をしてきて、4月1日をもって終了しました。ただし受洗後の祈りの仕方とかその初歩的経験の必要性を感じましたが、時間が足りず、未消化のまま終わりました。 内容は@五感をもって祈る祈り、A心の動きの捉え方、Bベネディクトの祈り、C黙想・念祷・口祷の仕方、D文言の祈り、E意識の集中、F体で祈る祈り、Gファンタジーで祈る祈り、H心で祈る祈り、Iベラカーの祈り(賛美と感謝)、Jベラコットの祈り(執り成しの祈り、回心の祈り)などです。

3 さて、信徒の皆さんには復活の信仰体験をお話していただきたいのですが、どうしたらいいのか。たとえばですが、信徒の皆さんの中から、自発的にご自分の思索をまとめ発表していただくことが出来ないものか。テーマは以下の通りです。@ナイムのやもめの息子を生き返らせた(ルカ7)イエスの思惑は何か、Aヤイロの娘とイエスの服に触れた女(マルコ5)を通して復活の前兆をどのように説明するか、B役人の息子のいやし(ヨハネ4)と復活の関係、Cラザロの死(ヨハネ11)とイエスの死との意味、D高い山の上でのご変容(マタイ17)はわたしたちに何を語りかけているのか、など信徒の皆さんにお願いしたい。

4 毎回司祭の主日の説教があるが、たまには信徒が復活信仰のお話をしてもらうのは、いかがでしょうか。皆さんがイエスの復活をどのように味わっておられるか、わたしにとっては大いに興味があります。



20093 ★イエスのように誘惑を試練に変えよう 主任司祭 七種 照夫

1 天使の剛毅(ごうき)の食べ物 イエスは聖霊に促され「荒れ野」に追い立てられた。この荒れ野は人も寄せつけない厳しい場所であり、かつて紀元前1250年ごろイスラエルの民がモーセに導かれ、エジプトのパラ王から解放されて、シナイ半島の荒れ野に迷い込み、民衆がモーセに水やパンを求めて食って掛かった場所でもあったのである。 イエスはその間、天使から剛毅の食べ物を給仕していただき、一方ではサタンからこれでもかこれでもかと矢継ぎ早に攻撃を受けられた。サタンは水や食べ物など一切無きに等しい状況下で、父なる神からイエスを引き離そうとする絶好の機会となった。 しかし、イエスを荒れ野へと送り出したのは聖霊ご自身である。さて、この「送り出す」というヘブライ語は独特な表現だと解説者は云う。マルコがこの「送り出す」という動詞を使う場合、「敵を追い出す」意味だという。強制的にイエスは聖霊から荒れ野に追い立てられたと。しかし、マルコはマタイやルカのようにサタンから誘惑を受け、それを克服したかのように表現したのではなく、イエスとともに世の終わりが到来していることを強調しているという。

2 死に打ち勝つ力 人の子イエスは、サタンとの戦いを開始し、死に打ち勝つ力を示された。それをフォローされるのが聖霊である。イエスを荒れ野へと突き動かしたのは、イエスがこの世に打ち勝つためであり、洗礼によって神の子とされたわたしたちを励ますためである。イエスが洗礼をお受けになったとき、雲の中から天の父が“これはわたしの愛する子である。これに聴け”とおっしゃったのは、この意味でとらえるのである。

3 イザヤ52章7節には 「彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの主は王となられた」と第二イザヤは予言しているが、イエスは“時は満ち、神の国は近づいた”と言い換えている。イエスは第二イザヤのいう「神は王となられた」をイエスはご自分で「神の国の到来」とおっしゃった。神の国が到来したのは、わたしたちが先に悔い改めたからではなく、それは神の賜物であり、イエスによる神の支配開始となったのである。 わたしたちは今、イエスを通して全面的に向きを変え、福音的な生き方を根本的に転換する必要がある。このことをわたしたちは「悔い改め」というのである。

4 「荒れ野」の現在化 わたしたちの時代だからこそ、神的な力と悪魔的な力が拮抗している。まさに現代社会がイエスの「荒れ野」の世界そのものである。荒れ野は信仰告白の場である。



20092 ★どうぞ、灰の水曜日に灰を 主任司祭 七種 照夫

1 灰の水曜日は四旬節の開始日
 225日は水曜日になっていて、カトリック教会ではこの日を特別に「灰の水曜日」と呼んでいる。信徒は大斎小斎を守らなければならない。
 さて、去年の主日に使用したあの古枝を各家庭から持ってきてもらって、ぼくは火事にならないように注意しながら、風穴を開けた一斗缶の中に古枝を折りながら丁寧に燃やし、焼き尽くす。そして次の日に金網籠で綺麗に濾して、二枚の小皿に灰を盛って用意しておくのが僕の仕事である。

2 灰の式次第から
 司式司祭は”人よ、覚えよ。あなたは塵であれば、塵に帰ることを”とゆっくり言葉をかみ締めながら唱え、清めた灰を信徒一人一人の頭にかけるのである。”回心して福音を信じなさい”の言葉より、僕は”人よ、覚えよ”のほうが味がある言葉だと思うので好きだ。
 ここでその根拠を述べることにする。最初のコンテキストはヨブ記120節〜21節にある。ヨブはサタンの試みに合い、全財産とかけがえのない息子たち娘たちの命さえも一瞬にして失った。ヨブはそのとき立ち上がり、衣を引き裂き、髪を落とし、”わたしは裸で母の胎からでた。裸でそこへ帰ろう”と悲惨な状況下で神に祈った。また三人の友もヨブを慰めるためにやってきたが、ヨブは見分けもつかないほど変わっていた。ヨブとともに悲嘆の声をあげ衣を裂き、塵を振りまき頭に灰をかぶった。「神は与え、神は奪う。神は賛美されよかし」がテーマである。

3 ヨナのニネベへの派遣
 ヨナ預言書34節〜6節の言葉もある。神はヨナをニネベの都の人々に回心を勧めるために遣わしたが、ヨナは嫌がって反対のエジプト方面の船にのった。その船に災難が降りかかり、思い直してニネベにいった。”あと40日もすれば、ニネベは滅びる。”と人々に説教した。それで、ニネベの人々は王を始め家臣たちもすべて、粗布をまとい、灰の上に座し、灰を被り、断食した。神はそれをごらんになってニネベの滅亡を思い直されたのである。回心がテーマである。

4 結びに変えて
 「人は土の塵でできている」というのは、創世記27節に「主なる神は土の塵で人(アダム)を形つくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。」と記されている。聖書的人間である。東洋的発想ともいえる。灰の水曜日に灰を受けるのは、人間存在の原点に立ち返って、自己を見つめ直す。これこそ我々に下さる神からの祝福であろう。
20091 ★今年の年間テーマの個の取り組み 主任司祭 七種 照夫
1 第十二回シノドス最終日に現教皇は全世界から出席された代表司教団に「聖書を祈りと生活の証しに変えていただきたい」と話されたとか。
 そう、「聖書をもって祈る」とか「聖書を祈る」とか、このような言葉は公会議後よく耳にしたが、以前は司祭も信徒も公教会祈祷文が主流であった。公の場で祈る場合、公教会祈祷文を用いていた。公会議後は、典礼刷新により信徒の自由裁量に任され、信徒が自由に自分の言葉で祈る雰囲気ができた。祈りの集い、異語の賛美、いやしの祈り、つまりペンテコステン・ムーブメントがそれである。
2 自己表現は自己実現に繋がるので、自己表現に慣れている人と慣れていない人のあいだには違いがはっきりしている。ぼくは長崎の田舎人だから、40歳になっても人前で話すのは不得手であった。形にこだわっていたから、人前で自分の考えや想いを自由に話すのは面倒くさくて気が進まなかった。
 戦後2年、(昭22)長崎公教学校入学、昭28年福岡サン・スルピス大神学校入学、神学科2年で中退、昭34年名古屋神言神学院1年間寄宿、1年後神学院入会許可、昭37年初誓願、昭40年終生誓願、同年8月大橋師と共に叙階された。これがぼくの神学校生活のIDカードである。
 1970年から1980年にかけて、新しい波が日本の教会にアメリカからそれもプロテスタントの教会からやってきた。つまり聖霊運動である。遅すぎた感もあるが、同時に公会議の波が押し寄せてきた。若くて意識の高い司祭たちは「アジョルナメント」(現代適応)を合言葉に、公会議終了と同時に教会が刷新されるものと大いに期待していた。進歩的司祭は、新しい神学論を展開し、次々と新書も出版された。しかし、動かざること山の如しで、日本の教会は進歩的司祭に失望感を与えた。そして教会を去っていった。
3 現教皇が言われるように「聖書を祈りと生活にチェンジする」ことになれば、それは自己発見につながり、自己発見は自己確認、自己実現に発展していくのである。40代になり、招命機器に陥り姉貴と慕っていたシスターの勧めもあり、イグナチオの霊操と10日間の感受性訓練を受けた。素晴らしかった。(内容は割愛するが)感性訓練はぼくの表現を変えた。ダイナミック、ボディ・ランゲージ、メルヘン、イメージ、ファンタジー表現などの訓練によって、聖書の読み方が変わった。このことがぼくの自己表現の原点となったのである。今年4月で74歳になるが、44年間の司祭生活を振り返ると、節目、節目で自分が変えられていた事に感謝する。



200812 ★待降節に信仰のあり方を考える 主任司祭 七種 照夫

1 主を迎えるための心の備えを
  待降節第2主日を迎えた。教会のうちと外は待降節一色に様変わりした。クリスマスツリー、アドベンツ・クランツ、馬小屋作りは当教会では、男性部が受け取っており、女性部はクリスマスイブミサにご参列いただいた大勢の方々に、ミサ後暖かい「ぜんさい」を振舞うことになっている。
  今年のクリスマスの飾りつけは、手際よく子たが運んだ。若い衆の奉仕があったのだ。先週日曜日に音楽会が開かれたので、試運転してみて、上手くいったので問題ない。内陣のツリーもクランツもOKだ。
  クランツにはもう二本のローソクに火が灯った。馬小屋もほぼ出来上がった。あとは本番を待つだけになった。待降節も半ばに入ってきた。
  われわれ信仰共同体は待降節一色のこの雰囲気の中で、子供から大人にいたるまで、一つの心になってクリスマスを迎えたい。

2 パリ外国宣教師たちからの伝統
  その伝統の一つが、「信徒黙想会」である。現在は年に二回、信徒黙想会を開く教会もある。我々の教会も年に二回、主日のミサに引き続き、午後3時聖体賛美式を持って終了することにしている。
  その昔、明治初期パリ外国宣教師たちは自国の教会年間計画を日本の教会の信徒に導入したのである。長崎教区の信徒黙想会では二日、三日、五日間と教会にとっては日程が違うが、四旬節の信徒黙想会は徹底されていた。僕も黙想会と続いて告解を聴いた経験から言えば、告解場の中には小箱がおいてあり、告解が終わったら、信徒はその箱の中に自分のネームいりのカードを置いて出ることになっていた。誰が四旬節の「年の務め」を果たしたか主任が確認するためであった。その当時は、「年の務め」を怠ったものは、「無信心者」と言われた。信徒は無信心者と言われないため頑張ったのだ。

3 大祝日の聖体拝領に関して
  最近気になることがある。クリスマス、新年ミサ、復活祭、葬儀ミサ等で、長期に渡りごミサに出席していないのに、ご聖体を拝領している。特に大祝日のミサの聖体拝領の時、手を差し出すことである。教会には「六つのおきて」があり、現在も有効である。「年に一度復活祭の頃に告白すべし」とある。信徒は年に一度の告解が義務付けられている。ご聖体拝領を通過儀式のように軽くかんがえてはいけない。



200811 ★列福式188名は日本の教会史上 最大のイベント 主任司祭 七種 照夫
 ペトロ岐部神父と187名列福記念式典は、いよいよ長崎の地で十一月二十四日、盛大に挙行される。

1 生月(いきつき)のガスパル様のこと
 私事になりますが、生月の殉教跡地は僕のふる里に近い。車では1時間30分位で行ける距離にある。ガスパル様のことは昔から聞いていた。これまで生月には2,3回足を運んだことがある。確かにそこには大きな十字架の記念碑と近くには祠(ほこら)があって、その前でお祈りしたのを憶えている。

2 僕の日本殉教者の歴史的認識の甘さ
 この度、『ペトロ岐部神父と187名の殉教者』の本を手にし、生月のガスパル様のことを読んで、初めて開眼した。僕が長崎ルドビコ小神学院に在任中、平戸教会の信徒に年の務めの黙想会で話をしたが、平戸教会がザビエルに奉献された教会であることを知っていても、それ以上に平戸島のザビエルの軌跡を辿ることに無関心であった。生月島も同様である。平戸の紐差教会、宝亀教会、山田教会もかつて訪ねたことはあったが、特に生月の山田教会の宿老さんにガスパル様の話を伺えばよかったが、僕はそのとき聴く耳をもたなかったのである。このことを今も心から恥じている。
 僕のふる里からは生月や平戸は眼と鼻の先だから、いつでも行けるという安易さが災いしてしまった。日本の殉教者の歴史的認識に欠けていたのである。  『ペトロ岐部と187殉教者』小冊子
 この度、日本の188名の殉教者たちの足跡を辿れば、日本の戦国時代の三大将軍、信長、秀吉、家康の国捕り物語に遡るのである。
 ザビエル来日を機にイエズス会やフランシスコ会、ドミニコ会が日本宣教活動を三つ巴で競い合う格好になった。好機到来と受け止め、宣教開始。と同時に受洗者の増加。次々に宣教の果実を見ることができたが、そう簡単に問屋は卸さなかった。やがて、キリシタン禁教令が発布され、街角に高札が立ち、バテレン追放と同時にキリシタン追跡が始まり、迫害と殉教の歴史が展開されていくのである。

4 地元生月の殉教者を称える!
 生月の殉教者一族を自分流に称えたい。それはガスパル西 玄可一族の物語である。ガスパル様と呼ばれていたので、僕はてっきりガスパル神父だとばかし思っていた。しかしこれは僕の全くの思い違いであった。確かにガスパル・ヴィレラ神父は、玄可親子に洗礼を授けていたのは事実である。
 ガスパル玄可は、平戸の生月島の出身である。玄可はドン・アントニオ籠手田(こてだ)左衛門(現在は南田平一帯)の家臣で、生月島の総奉行を務めていた。2歳のとき玄可は父親と共にガスパル神父から受洗し、父親の後姿を見て育ち、成長していった。
 成人したガスパル玄可は、未亡人ウルスラ・トイと出会い、連れ子ガスパル・トイをわが子と認知し、可愛がった。玄可はウルスラとの間に4人の子を授かった。長男のヨハネ又市、次男のトマス六左衛門、三男のミカエル加左衛門、そして一人娘のマリアである。
 1599年、籠手田左衛門の長男ジェロニモと従兄弟バルタザル一部(いちぶ)は、ヨハネ西 又市をはじめ家臣600名を従え、信仰を守り抜くために生月を離れ、長崎へ逃れていった。他方又市以外にガスパル玄可一家は生月島にとどまり、伝道師として残された信徒の家族の世話役を買って出たのである。ところで、ガスパル・トイは15歳になり島を離れ、有馬のセミナリオに同宿し、イエズス会に入会した。一方、次男トマスにし 六左衛門も同じセミナリオに学び、後に単身マニラに渡り、ドミニコ会に入会し、ついにドミニコ会の司祭として叙階された。
 三男のミカエル加左衛門は家族を養い、広島の教会で信徒に奉仕した。一人娘のマリアは生月の捕り方舘浦(たちうら)の奉行、混同善三の息子と結婚したが、運悪く平戸城主松浦鎮信が島民にキリシタン禁止令の高札を辻に立て、島民の詮議を始めた。近藤奉行親子もマリアに棄教するよう強く勧めたが、頑として譲らず、ついに夫と離縁し、父の家に戻った。松浦鎮信はついにこれまでと玄可に処刑を命じた。
 かつて、1563年にコスメ・デ・トーレス神父によって黒瀬の辻に記念碑が立てられたその同じ場所で、1603年十一月十四日に首をはねられた。数日後には、その場所から少しはなれたところで、妻ウルスラと長男ヨハネ又市と娘マリアも首をはねられた。他方、次男のトマス西 六左衛門はドミニコ会の神父としてマニラから帰国して、昼夜迫害下の信徒たちの司牧に心血を注いだ。賞金欲しさに長崎奉行に密告するものがいて、ついに捕らえられ、1634年十一月十一日長崎の西坂の丘で殉教していった。

5 ガスパル玄可の次男坊はドミニコ会の神父
 日本二十六聖人の列聖式と205名列福者の列福式はローマ教皇庁独自のサポートによるものと考えられる。幕末の日本が鎖国を解き、フランスとの通商条約を結ぶにあたって、ローマが日本の教会の再興を願い列聖したと見るのが妥当であろう。ドミニコ会は独自で列聖のために準備をすすめ、『トマス西 六左衛門と十五人同士殉教者』は、1987年にマニラで列聖されたのである。このトマス西 六左衛門こそ、生月のガスパル玄可の次男坊であった。生月のガスパル玄可一家こそ、現代の信徒の家庭の鏡(かがみ)と言わねばならない。この度の『ペトロ岐部と187名の殉教者』列福運動には、日本司教団の働きがあった。



200810 ★ロザリオの月 主任司祭 七種 照夫

1 ロザリオはイエスの玄義を想い起こすこと
 ロザリオの基本は十五玄義の黙想にあります。喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義、最近はヨハネ・パウロU世の推奨される光の玄義を加えますと、二十玄義を聖書の中から抽出し、神秘的な出来事を黙想してロザリオを唱えます。なお玄義、奥義、神秘とも云って豊かな内容を受け取っています。

2 ロザリオは素晴らしい単純な祈り!
 ロザリオの唱え方については、皆さんがご存知だということを前提にして説明はいたしません。ロザリオの祈りは全く単純で、誰でも何処ででも唱えることができるのが利点です。唱えるということは、声を出して祈るということです。一人でも祈ることができます。昔の長崎出身の信徒たちは覚えているでしょうか。「ロザリオという変わりに「コンタツ」とも云っていました。「コンタツ」はポルトガル語で「玉」という意味だそうです。このポルトガル語は、バテレン時代、キリシタン時代の外来語でした。長崎の旧信徒たちにとっては、「コンタツ」の方が親しみやすいのではないかと思います。いかがです。

3 ロザリオはF・ザビエルが伝えた!
 ロザリオの祈りは、一五九七年に日本二六聖人も手にロザリオをもち、または首に掛けていますね。マリア観音像を見てください。首にロザリオを掛けていますよね。細川ガラシア玉子婦人も手にロザリオを持っているのを見ても分かります。ロザリオは切支丹の証しです。

4 ロザリオは百五十反(ぺん)の祈り
 ロザリオの祈りの起源を調べてみますと、『どとりな きりしたん』(Doctrina Christian)=キリストのみ教え)の中に見出すことができます。F・ザビエルがトレントの公会議の内容を自分流にまとめたカテキズムが『どちりな きりしたん』だったと思われます。その『どちりな きりしたん』の第十二項目ある中で、第四項に次のように書かれています。『あべーまりあの事』(Ave Maria=恵みあふれるマリア)について記されています。(その表現は問答形式になっています)
 師:あべーまりあという おらしょ(Oratio=祈り)をただ今教えゆべし。(注・ラテン語のマリアの祈りがキリシタン用語で文章化されている)弟子:何によってか、御母さんたまりあに対し奉り、百五十反のおらしょは聖母びるぜん(Virgo=乙女)の御年の数に対し奉りて申し上げる也。又百五十反のおらしょは十五のみすてりお(Mysterio=玄義)とて、五ヶ条は御喜び、五ヶ条は御悲しみ、今五ヶ条はぐろうりあ(Gloria=栄光)の御理(おんことわり)に対して申し上げ奉る也。
 以上、丁寧にロザリオの祈りの内容やその唱え方がきちんと説明されています。本当に恐れ入りますね。

5 ペトロ・カスイ岐部神父と百八十八名の列福式
 日本のm教会の最大のイベント、戦国時代に百八十八名のキリシタンが殉教したことを記念して、来る十一月二十四日、長崎の地で百八十八名の列福式が行われます。日本司教団はすべての小教区に向けて、あとわずか7週間となりましたので、主イエスに命をささげた殉教者たちのことに思いを馳せ、祈り、教会が殉教者の血によって存続していることを再確認して、当小教区の皆さんには、ミサの時殉教者の横顔をお話したいと思います。
 今月はロザリオの月ですから、百八十八名の殉教者たちと心を一つにする意味でも、ロザリオを唱えながら、列福のお祝いの準備をしていきましょう。



20089 ★同信の友の長寿をお祝いしよう! 主任司祭 七種 照夫

1 暑さ寒さも彼岸までと昔から聞いておりますが、まさに暑さもこの辺りまでというか、真夏の35℃を越える連日の猛暑日も過ぎてしまえば、あたかも夏の夢のようです。
  しかし、8月28日の夜半から振り続いた大雨は、東海地方に集中豪雨をもたらし、被害は名古屋市内にも数ヶ所ありましたが、岡崎市内の堤防決壊の被害は甚大でした。心からお見舞い申し上げます。

2 さて、本日、当教会では恒例の「敬老のミサ」がささげられ、70歳以上の丈夫な15名の方はごミサに出席されています。最近、「敬老の日」について教会の信徒の方も日本の通過儀礼の一つと考えられておられるようです。教会委員会の方々も忙しい毎日だから教会行事を一つでも減らしてもらいたいという雰囲気が感じられます。

3 そこで、信徒の皆さんにお願いがあります。「信仰の先輩の長寿を祝う」ということはすばらしいことだと強調したいのです。カトリック教会から「神の祝福」=「ベラカー」を取り上げてしまうと何の意味もなくなり、絵同時に教会の存在理由もなくなります。
  旧約聖書の創世記全体を読んで見てください。神はすべてのものにいのちを与え、それを祝福されています。創世記第1章22節「神はそれらのものを祝福された」とあります。また、創世記第1章27節「神は彼ら(男と女)を祝福された」、創世記第2章3節「第七の日を神は祝福し、聖別された」。
  創世記第12章2節、アブラムに「わたしはあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福する」とあります。
  これらの理由からいえば、「祝福」の根源は神にあります。イスラエルの民は天地万物もすべての出来事も神から与えられる賜物(祝福)と理解しました。神からいただくベラカー(祝福)と民は神への応答をベラガーとし、神への「賛美」「感謝」としました。
  旧約の最大の祝福はシナイ山の契約です。
  新約時代のイエスは「生きた祝福」とされています。(ヨハネ3:16)
  もう一つは、兄弟同士の横のつながりの祝福を「ベラコット」と呼んでいます。これは友のための「執り成しの祈り」です。
  長寿を神からの祝福と受け取ったのは、イスラエルの民でした。たとえば、アブラハムの生涯は175歳。サラは127歳。イシュマエルは137歳。アザクは180歳。ヤコブは147歳。ヨセフは100歳と記されています。また、申命記第34章7節ではモーセの生涯は120歳と記されています。
  ですから、聖書の視点からわたしは「長寿は神からの恵み」であると理解しています。信徒の皆さんも「長寿」をお祝いするのは日本の通過儀礼の一つとするのではなく、聖書を根拠にした理解をしていただきたいと思います。

4 本日は「敬老のミサ」です。70歳を越えられた方々をお招きしております。快くご出席してくださいました。今日まで信仰を宣言し、信仰に生きてこられた同信の友の「長寿」を信徒の皆さんとご一緒にお祝いいたしましょう。



20088 ★聖母マリアの被昇天祭 主任司祭 七種 照夫

1 恒例の合同慰霊祭に向けて
  8月3日(日)後に、遺族の方々からミサとそれに続く合同慰霊祭にどのくらい申し込みをされているか知りたくて、芳名帳を見ましたら、37名でした。あと一週間だというのに去年に比較しますと、随分申し込みの件数が減っておりました。
   気になるのは、遺族の方が亡くなられた両親、兄弟姉妹のためにごミサを捧げるのは、当然のことと思われますが、主日のミサにお出にならなかったことで聞きそびれてしまったのでしょうね。諸死者のためにお祈りするのは一一月ですが、日本文化の中で開花した死者のためにお祈りする月は8月のお盆と9月のお彼岸です。仏教は死者のためにお祈りを捧げます。 私たちの教会の信徒も、お盆近くの日曜日に毎年慰霊祭を行い、親や兄弟姉妹のためにミサとお祈りを捧げることになっております。理由は天に召された霊魂は煉獄で浄化の道を歩み、神の御前に呼ばれるその時まで、心は清められなければならないという神学は今でも有効です。信仰の側面から云っても霊魂の浄化は納得がいきます。

2 聖母マリアの被昇天祭
  8月15日(金)の被昇天を祝うマリア様のミサは、去年まで、夕方5時からミサがあり、引き続いて納涼会を企画しておりましたが、時の流れは抗しきれず、誠に残念ですが、男性部の有志のお手伝いが少なくなったため、準備することができなくなりました。 また夕方のごミサにお出になる方も少なくなりましたので、もとに返って午前10時にミサを行います。ミサに来られた方々に、「ふくれまんじゅう」と「冷やしそうめん」を振舞うことにしております。 今私たちに問われていることは、親と子の絆、家庭の絆、家庭の祈り、主日のミサ、小教区の共同体、回心と癒し、信仰の喜びの体験が優先されなければならないことです。



20087 ★時事問題を自分の眼で観る 主任司祭 七種 照夫

1 洞爺湖サミットが閉会
  7月7日洞爺湖サミットが開幕し、議長国である日本の福田首相が司会の役を引き受け、会議を盛り上げ、9日に無事閉幕した。後日党へ報告した際彼は小さくガッツポーズをした。彼の力の入れ方も分かるが、議題が盛り沢山で、三日間の会議が終わり、G8主要国の声明を彼が発表したが、文章表現が今一つで解釈の問題か、明確さに欠けていた。去年のドイツ・ハイリンゲンダム・サミットを受けて今回の洞爺湖会議であったが、石油や食料や水の問題も私たちの期待に充分応えるものにはならなかった。

2 今回の優先課題といえば
  特に重要懸案であった地球温暖化対策では、2050年までに世界全体の二酸化炭素排出量を少なくとも50%を削減するという表現はどこにも見当たらなかった。主要国が自分の国益を重要視したのは、アメリカ大国だけではなかったのである。
   また世界食糧危機の問題も、アフリカを代表して貧困に喘ぐ国の食料を充分に確保する討議は表面的に終わってしまった。地球環境や気候変動と関連する砂漠化の問題も、アフリカで住居が砂で埋め尽くされている現状があるのに、重視されなかった。
  世界経済の面から云っても、サブプライムはもとよりアメリカのオイル・マネーによって吊り上げられて世界経済が不安定になり、化石燃料といわれる原油価格の高騰によって、日本でも漁業、農業、水産業がガソリン値上げによって大打撃を受けている。かつおマグロ漁船やイカ釣り漁船は全国一斉にストに突入し、東京で大会を開いた。このままでは失業者が続出し、家庭崩壊に繋がる危険性がある。
   アメリカがいう石油依存から脱却するために別の燃料に切り替える必要があるのは分かるが、トウモロコシをバイオエタノールにするのは、貧困国の食料危機のシンボルでもあるので、トウモロコシのバイオ燃料化はまずいとG8主要国が決めるかと思っていたが、つい自国の利益を優先した形になった。

3 食料、石油、水は人類共有の財産
  食料や石油や水は人類共有の財産である。これらの共有財産は先進国だけのものではなく、発展途上国のものでもある。歴史的認識からすれば、先進国がこの地球を温室ガス等によって温暖化を招いたのだから、二酸化炭素削減を実施するのは当然だと思うが、アメリカ全体からすれば、中国やインドと同じ条件だというのだから、おかしな話だ。
   温暖化は地球存亡にかかわる問題だから、先進国がまず全世界に謝罪してほしいと思うのである。



20086 ★小さないのちに感動 主任司祭 七種 照夫

1 中国・四川大地震
  五月十一日(月)午後2時30分、中国・四川大地震が勃発した。M・8という凄まじい揺れと亀裂が走った。震源地はぜんせん県と言われている。山並みが動き、斜面が崩れ落ち、谷間の町や村の家屋はすべて瓦礫の山と化し、川は寸断された。 今でも余震が続いているが、その中で救援活動は続行されている。山岳地帯が今回大被害にあったので、その主要な道路は無残にも寸断され、軍隊や救助隊が現地に直行できないことも重なって、四川省の被災地では救助活動が大幅に遅れてしまった。

2 人口ダムの決壊の恐れ
  五月二十五日にも、4回の大きな余震があった。大地震による土砂崩れで、川がせき止められ、人口ダムができ、今それが決壊の危機があるという。下流の住民11万人が避難を余儀なくされている。もし完全決壊したとすれば、下流の住民130万人が避難することになるという。大変なことだ。6月5日現在、死者69127人、行方不明者17918人、被災者373、612人と報道された。

3 感動的な愛の物語
  そんな中で、四川省北川県から喜びの知らせが伝えられた。「いとしい赤ちゃん、もし生き延びたら、私があなたを愛していたことを忘れないでね」と、携帯メールにメッセージを残して亡くなった若い母親がいた。わが子をかばい、瓦礫の下敷きになっても自分の体で守り、力尽きた母親の無償の愛の物語である。詳しく話せば、以下の通りである。
   損壊した建物の隙間から一人の女性が救助隊によって発見されたのは、五月十二日の地震発生から一日たった正午ごろ、瓦礫の下でうつ伏せになり、自分の体を両手で支えるような格好で死に絶えていたが、その下からかすかな声が聞こえたという。”子供が生きているぞ”と叫ぶ声があり、その場に駆け寄ってきた人たちが瓦礫を払いのけ、その女性を持ち上げてみると、その下に毛布に包まった3、4ヶ月の赤ちゃんが生きていた。その毛布の中から、一台の携帯電話が見つかった。携帯を開いてみると、”いとしい赤ちゃん、お母さんを覚えていてね”と。わが子をかばい、携帯に遺言を残して天に召されたこの母親の無償の愛の行為は感動的である。

4 早く子供の心のケアを
  地震の恐怖というか、一瞬にして両親を失い、兄弟姉妹、家を無くした人たちが大勢いる。この地震に遭った人たちの悲しみは深い。孤児になった子供たちは悲しみから一日も早く開放されますように。



20085 ★今年の教区テーマ「神にきく信仰」(その4)〜どうする、五反城小教区の取り組み〜 主任司祭 七種 照夫

1 対話集会が始まる!
  四月の教会委員会の席で、最終的に教区の年間テーマをどのように取り組んだらいいのかを討論し合った。信徒の中には勉強会は苦手だけれども、しかしながら話し合いならば出席すると言った人が多かった。しかし、話し合いをといっても、話題性がなければ先に進めないし、対話を期待している人には長続きしないから、討論のためにテキストを作ることを約束したのである。
  五月から対話集会を始めるということになったので、1ヶ月かけてテキスト作りにはまったのである。まず参考資料になるものを抽出して、話題性があり興味あるものにするのには大変苦労した。月二回、夏休みをとってクリスマスまで数えますと、十三回となる。それで十三回分の話題を作った。自分のためにいい勉強になった。さらにパソコンに入力する段になると、時間がかかり同じ姿勢を続けていると、腰が痛くなり肩が凝るのである。その痛みに耐えながら、ついに仕事を仕上げることができました。

2 話題の十三項目
  目次を見ていただきたい。話し合いのための項目で、以下の通りである。@2008年の年間テーマ「神にきく信仰」 A五反城教会を開かれた教会にするために B小教区理解と教会理解 Cキリストの神秘と使命と運動 D社会の変化と教会の現代適応E新しいアレオパゴス(宣教の場)Fキリスト信者の成熟 G教会離れとその具体策 H信仰と文化との出会い I殉教者の証しによる教会の発展 Jキリスト教は日本の土壌に根づくのか K社会の只中に派遣されたキリスト者 L五反城小教区の信徒の事情、とした。これをもって一年間のテーマの取り組みと思っていただきたい。

3 問題点を浮き彫りにして
  十三項目には、発言しやすいように発問をそれぞれ立ち上げた。最初の切り口として私の方から質問をさせていただいたが、あとは皆さんが自由に質問して構わないのである。ここで注意していただきたいことは、まず初めに参考資料を読んでください。質問を作ったのは、あくまでもこの参考資料を基本にしているからである。
  参考資料として引用したのは、神学ダイジェスト、教皇パウロ六世とヨハネ・パウロ二世の使徒的勧告、日本司教団の報告書、そして私の巻頭言「ヨハネのたより」からの抜粋である。それでは、話し合いの時間が有意義なものとなるようお祈りいたします。



20084 ★今年の教区テーマ「神にきく信仰」(その3)〜どうする、五反城小教区の取り組み〜 主任司祭 七種 照夫

1 今年は早めの復活祭でした。聖土曜日の復活徹夜ミサでは、大人二人と子供三人が受洗いたしました。五反城小教区に加名されたことは大きな歓びでありました。嬉しい限りです。 

2 さて、教区テーマの三回目として、東洋の使徒ザビエルから話を進めます。 彼の日本滞在が二年三ヶ月という短期間に終わったのは何か知りたい。
 あれだけジパングに布教情熱をかけた割には短かったのは、ザビエルがインド管区長に任命され、日本布教を中断し、マラッカに帰船することになった。 しかし、疲労困憊からか体調を崩し、高熱で倒れ、無人の島・上川島で臨終を迎え、46歳の生涯を閉じたのです。

3 二年三ヶ月の短期間に、1000人の者が受洗したというのには、いったい何があったのか知りたい。
 一つは、四人の大名(島津、松浦、大内、大友)に布教の許可を頂いたことが功を奏した。教勢の面から言えば、鹿児島(150人)、市来(20人)、平戸(180人)、豊後(50人)、計1000人となる。驚異的な数字である。
 二つ目は、布教の方法にあった。三人の日本人は、マラッカでザベリオと運命的出会いがあり、勉学に励み指導を受け、一年後に受洗した。
 安次郎はパウロ、弟のジョアン、下僕のアントニオは、さらに伝道師の養成をうけた。ザベリオに日本の情報を提供し、日本布教のため簡単なカテキズムが用意されました。 三人は水先案内人となり、ザベリオとコスメ・デ・トーレス神父とジョアン・フェルナンデス修道士の通訳をし、さらに三人の日本人が信仰体験を話すことによって、大きな影響を与えたのです。
 三つ目は、ザベリオ後任にコスメ・デ・トーレスが任命された。そのとき、盲の琵琶法師がトーレスの指導により受洗し、ロレンソの霊名を受け、伝道師となりました。 「どちりな・きりしたん」の教理を日本語に翻訳し、パウロ養甫軒もトーレスから受洗し、伝道師になった。1553年の教勢は2400人と倍増されていました。
 四つ目は、中世期のプロテスタントの宗教改革者がローマ・カトリック教会に抵抗したために、1545年にトレント公会議が開催され、日本では、「カトリック要理」と紹介され、それをザベリオが使用したのです。

4 「神にきく信仰」を前提としていえることは、1561年に活字印刷された「どちりな・きりしたん」を訳したロレンソの要理書は、「カトリック要理」に大きな影響を与えることになったのです。



20083 ★今年の教区テーマ「神にきく信仰」(その2)〜どうする、五反城小教区の取り組み〜 主任司祭 七種 照夫

1 日本の列聖、列福された切支丹は戦国時代(織田、豊臣、徳川)を生きた人たちです。でうす(Deus=神)、ぜす きりしと(イエス キリスト)の御為に切支丹武士たちが命を惜しまず、花と散っていった。ぱあどれ(神父)、ばてれん(修道士)からばぷてすも(Bautismo=洗礼)を受け、堅くひいです(fidesu=信仰)を遵守していましたが、誰かが城主にちくって、ばれてしまい、縄目を受け、棄教を強いられてもそれに屈せず、ぜす きりしとの御為に名誉も地位も全てを棄てて殉教していったのです。このように文章化するのは難しいことではありませんが、殉教するとはすごいと思います。

2 ところで、武士たちの信仰の根底には何があったのか知りたい。ザビエル来日以降50年も経っていないのに、当時受洗した信徒は50万人もいたと言われています。現在のカトリック信徒数とあまり大差はありません。当時の切支丹の信仰を武士階級がすべてだとは言わないが、「武士道」の世界観なしには語れないような気がします。武士の道には7徳目があると言われます。「正義」「勇気」「仁=武士の情け」「礼儀」「誠実」「名誉」「忠義」が挙げられます。これらの徳目の中で、二つを取り上げます。たとえば名誉とは最高の善とみなし、苦痛と試練に耐えながら、自分の命を主君に仕える手段と考え、徹底したという。自分の至福が名誉にあり、イエスもおっしゃったように「友のために命を棄てるほどの愛は、この世にはない」と。次に忠義についてですが、人が何のために死ねるのか。忠義はこれらの7つの徳の要石である。主君に対する重臣の礼儀と忠誠と義務が特徴である。主君の命令に対して絶対的従順がその存在理由である。

3 先日、Tさんから私宛に「どちりな きりしたん(Doctrina Chrisitiana=キリストの教え)の資料が送られてきました。その中味に目を通しますと、戦国時代の武士たちの信仰教育が強烈であることに気づきました。1545年〜1563年までは、トレント公会議が開催され、その真っ最中でした。ヨーロッパでは宗教改革の大嵐が吹き荒れていました。「どちりな きりしたん」は、ザビエル来日後42年目の1590年に活字印刷機を日本に持ち込み、その翌年に「どちりな きりしたん」が初の切支丹本として印刷されました。バチカン公会議前の公教要理はトレント公会議の要約でしたから、よく分かります。驚くのは、当時の武士たちがポルトガル語、ラテン語の文章をよく理解したものだと感心しています。
 
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20082 ★今年の教区テーマ「神にきく信仰」(その1) 主任司祭 七種 照夫

1 ”主よ、あなたの僕は聞いています”と神に返答したのは、若きサムエルでした。旧約聖書を読んで気づくのは、人は神の側から名前で呼ばれています。私たちが神に心を向けて祈るとき、神の呼びかけに耳を澄ませながら内奥で聴いています。私たちは意識を集中して祈りますが、つい散心しっぱなしになることもあります。
  いのちの電話の窓口や精神クリニックの先生や霊的指導者は、傾聴訓練を習得する必要がありますが、必ずしも傾聴訓練は特定の人に限定されることはありません。人間関係をよくしたいと思う人は誰でも、人の話をよく聞く「耳」になることです。

2 来る十一月二十四日、長崎市内の松山球場で「ペトロ岐部と一八七名」の列聖式が盛大に挙行されることになっており、バチカン特別大使も来日され、日本の全教区の信徒たちも一同に会することになっています。
 そこで、日本の戦国時代を振り返りますと、特に武士階級の人とその家族が受洗の恵みに浴したのはなぜか。武士にしてみれば城主に家臣として忠誠を尽くしても、必ずしも城主が全戦全勝とはいかず、落城すれば家族にも及び、一家全滅の危機が生じる。来日したパドレとバテレンたちは通事を通して死の意味を説き、すべてのものに命を与えるデウス様のみ教えこそ、武士道としてまさに「死ぬことをみつけたり」の感動があったろう。はかないこの現世にあって、デウス様が天地の創造主、み子イエス様が救い主として受け入れるのには、さして困難なことでなく、当時の武士の危機意識にマッチしていたのでしょう。命をすててこそ救われるわが身の喜びを見出したのは彼らです。
 九州佐賀藩の武士はまたの名で「葉隠れ武士」と呼ばれ、彼らは、「武士とは死ぬことをみつけてたり」といってその心境を吐露しています。イエス様のみ言葉に非常に酷似しています。

3 教区の司教年間書簡では「神にきく信仰」と提言されていますが、深秋に列聖される188名の「命を捨ててこそ救われる」大きな愛の炎と信仰に、今を生きる私たちも辿り着きたい。ザビエルは1549年に来日し、2年ほど滞在しキリスト教を伝えた。その胎動期の50年間に、大勢の殉教者の鮮血の歴史です。

4 第二バチカン公会議以前の宣教師たちは、信徒に「天国に行くには多くの犠牲を払い、貧しく生きる」生き方を説きました。苦しみのキリストが強調され、苦しみを通して喜びを得る霊的指導が主導的でした。
 
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20081 ★新年早々想うこと 主任司祭 七種 照夫

 1 成人式はなぜ元旦ミサでなければいけないのか。1月14日(月)が本来の成人式なのに、五反城ではなぜ元旦にやるのか、僕には腑に落ちない。名古屋という大都会なのに。田舎の教会であれば、よく分かる。正月をふるさとの我が家で迎えたい。たまにはお袋の味を噛みしめたい。ふるさとの親たちも息子たちや娘たちが都会に住み、教会のミサには行っているか、そんな話も聞いてみたい。久しぶりで帰ってくるのを楽しみにしているのはふるさとの親たちだ。これはよくわかる。僕もかつてはそうだったから。ふるさとの教会の主任司祭も帰ってきた若者に新年のミサで祝福するのは当然である。
 元旦ミサは年始のミサだけとは限らない。神の母聖マリアのそれであり、世界平和祈願ミサでもある。教皇の年頭書簡の朗読など、世界を視野に入れてミサが行われることになっている。もちろん成人式を迎える青年たちのために祈り、祝福するにやぶさかではないが、五反城の場合、成人式のミサは元旦でなくてもよいではないか。丸抱えは無理だ。
 教皇様の年頭書簡を抜粋して朗読するだけでも時間はかかるし、世界平和の問題や神の母のことをコメントするだけでも時間がかかるのである。

2 元旦ミサは年始のミサだから、正月ミサには大人も子供も晴れ着姿がよく似合うのに、ミサにいらした方々の服装は普段着のままの姿が目立った。大人では一人だけ和服姿で、数人の子供はきれいな晴れ着を着ていた。昔は大人も子供も着飾って元旦ミサに来ていた。新年のミサだからあらためて、神の御前に姿勢をただし、襟を正すという習慣があったのに、今の大人たちがいい伝統を守っていないのである。
 現代人は形式を嫌うが、「しつけ」とは身を美しく見せると書くように、小さい時からの身のこなし方を家庭で教えていくのは親たちの責任であった。僕は信仰教育も形から始まると考え、そのように教えている。

3 元旦ミサ後の乾杯にはカルピスはいただけない。乾杯はワインに限る。今のご時世だからという理由で、カルピスにするというのはとても残念である。小さいワイングラスでの乾杯だから、車の運転に差し支えるというのはいかがなものか。小さいワイングラスに一口だけですぞ。何も大きいワイングラスになみなみとついでいただくわけではない。常識を働かせていただきたい。ただ新年の乾杯にカルピスはいただけない。

4 年に二回、黙想会の指導者選びについて。典礼委員会に任されているので、委員は懸命に人選をしている。教会委員会で提言があったが、今回だけではない。発言したことに責任をもって、探してほしい。
 

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